⑧いつもと違う君

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⑧いつもと違う君

~*泣かないで。*~  好きだ。  素直にそう認めれば簡単なもので、近元は大いに開き直った。  教師と生徒、なんのその。年齢差だって気にならない。そこに愛があればいい。一緒にいてはいけないなんてことはない、と思っている。  しかしそれはこちらの話であって、彼女はどう思うのだろう。  いくら彼女の笑顔がじいちゃんに似てるからといって、性格も同じわけではない。  きっとまだまだ知らない顔があるだろうし、繊細な部分だって持っているだろう。  それでも、少しでもいいから好感度が上がったら嬉しいのだけれど。 (どうしたもんかなぁ)  放課後の騒がしい時間。  まだ部活が始まる前の廊下は、沢山の生徒で溢れている。 (担任だからってそこまで接点があるわけでもないし、話し掛けに行くのも他の子より贔屓してることになるし)  近元と同じように彼女がなにも気にしないタイプだとしても、教師と生徒の壁は厚い。  終礼が終わった近元が、決して口に出せないようなことを悩みながら廊下を歩いていると、ふと、少し先の向こうが騒がしいことに気がついた。  周りの視線もそちらを向いている。どうやら男子生徒が言い合いをしているようだ。 (あれ、ちょっとヤバそうだな)  だんだん声が大きくなり、ヒートアップしていることが分かる。一旦声を掛けた方がいいだろう。  すると片方の男子生徒が拳を振り上げた。 (あっ)  いま手を伸ばせばその拳を受け止めることが出来るだろう。子供の頃、じいちゃんの知り合いがやっていた空手に通っていた身体が反応した。 (でもこれは……)  しかし、近元は手を伸ばすのでは無く、二人の身体の間に割って入って、その拳を顔面で受け止めた。  ガツリと痛みが走る。 「きゃっ」  近くにいた生徒の短い悲鳴が耳に届く。  動揺が波のように広がるのを肌で感じながら近元は、切れたのだろう、ヒリヒリと痛む口角をわざと拭わずに殴った方の男子生徒を見た。  彼は顔を真っ青にし、「す、すんま、せ」と謝罪がこぼれ落ちる。 「友達がこうなるところだったよ」 「大丈夫?」と振り返れば、かばわれた男子生徒も怖がった表情で何度も頷いた。 「こら、おい、何してる!」  少し先から声がし、振り向くと体育教師が小走りでやって来ていた。このまま二人は面談室行きだろう。  もう一人の教師の登場にホッとすれば、突然グイと腕を引かれた。 「おわ」 「近ちゃん」  その愛称で呼ぶ生徒は多い。でもこの声を聞き間違えることはない。 「玖凪さん?」 「保健室行こ」  朱莉はそう短く言い、早足で近元を引っ張っていく。  いつもより低い声と雰囲気が、『大丈夫』の言葉を押しとどめ、ただ黙って朱莉に引かれるまま保健室へ直行になった。 「はーい、こんなもんでしょう」  保健室の先生――養護教論が切れた口角に絆創膏を貼る。 「すみません、お手数おかけして」 「いいえ。いいのよ、いいのよ」  下がり眉毛で苦笑すれば、養護教論は軽く手を振った。まさに保健室の優しい先生という雰囲気だ。 「大丈夫? 近ちゃん」 「大丈夫だよ。心配掛けてごめんね」  後ろから覗き込むように心配する朱莉に、近元は微笑み掛ける。いつもよりも沈んだ声が申し訳ない。 「でも、近元先生だったら殴られる前に何か出来たんじゃない?」 「え?」  短く声を上げたのは朱莉だ。 「確か空手の段? 級? 持ってたわよね?」 「いや、まぁ。子供の頃の話ですけどね」  近元は苦笑のまま頭を掻いた。 「近ちゃん、ワザと殴られたの?」 「まぁ……相手を殴ったらどうなっちゃうのか、知っといた方がいいと思って」 「あらあら、教師の鏡ね」  ふふふ、と笑うのは養護教論。 「…………」 「玖凪さん?」  俯いてしまった朱莉に近元はイスから立ち上がる。  一体どうしたのかと一歩踏み出せば、彼女はクルクル巻かれた髪の毛を手で流して顔を上げた。 「近ちゃんカッケーね! すっごく大切なこと教えてんじゃん! えらい!」  笑顔と、張りのある声。でもその笑顔も声も震えているのは誰がどう見ても分かるだろう。 「男の勲章だね!」  グッと親指を立てて笑うが、その手はゆっくりと解かれ、そっと近元に近づいていく。 「でもさ」  そして朱莉は近元の怪我した方の頬に指先だけで触れて、でもそれは一瞬ですぐ離れた。 「痛いの、イヤだね。悲しい、ね」 「玖凪さん……」 「んじゃ、お大事にするっス!」 「え、え、ちょっと!」  いつもとは違う彼女の姿に動揺し、止めることも出来ずに、朱莉はそのまま走って保健室から出て行ってしまう。  保健室はガランと音を立てたかのような静寂。だが開いたままのドアの向こうからは部活が始まりだしたのか、笛の音が聞こえてくる。  近元は固まったまま「えーっと」と内心汗をタラタラ流す。だが追いかけないという選択肢など存在しない。 「あの、このことは出来るだけ内密に……」 「やったー! 高級チョコ」  語尾にハートがつく声で言われる。  高級チョコ? そんなの安いもんだ。 「了解ですっ」  跳ねるように駆け出せば、後ろから「保健室使ってどーぞ」との声。それに内心で『ありがたい!』と返しておく。  先ほどよりも生徒が減った廊下に出れば、俯くように歩いている朱莉の後ろ姿を見つけ、一気に距離を縮めた。  殴られようと判断したときもそうだが、幼少期に鍛えていた身体はまだ完全に衰えたわけではないらしい。  近元は手を伸ばし、彼女の肩を取る。振り返らせた朱莉はやはり泣いていて、胸がギュっと痛くなった。 「わっ、わっ、わっ!」  追いかけてくるなんて今度は朱莉が動揺し、慌ててまた走り出す――のを腕を掴んで引き留め、「玖凪さん」と下がり眉毛で笑って見せた。少しだけ口角が痛い。 「もう一回、保健室に行きましょう」 「アタシはえっと……」 「玖凪さん」  強く名前を呼ぶと、丁度これから部活の筋トレをする生徒たちがゾロゾロと廊下にやって来る。このままだと目立つだろう。でも、それでもいいと近元は手を離さない。  もしこれが問題になったとしても痛手を負うのは自分だけだ。それなら目の前にいる好きな子を泣かせたままになんか絶対しない。 「行くっ。行きマスっ」  周りを気にしているのか朱莉は慌てたように言い承諾し、それから「手っ! 手っ!」と腕を振る。 「逃げない?」 「逃げないから!」 「よろしい」  そう言いつつも警戒しながら手をゆっくり離す。  しばらく様子を観察したが、どうやら本当に逃げないらしい。先ほどまで涙を流していた目を手で拭う姿にはまた胸が痛む。 「行こっか」  無意識でポンポンと頭を軽く叩くと、朱莉は「うん」と頷いて鼻をすする。  筋トレをする生徒の邪魔にならないよう端の方を歩き、また二人で保健室へ戻っていった。
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