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⑨過ぎ去った春風
~*強風にもほどがある。*~
再びドアを開いた保健室に養護教論は残っておらず、誰もいない二人きりの部屋になる。
言葉通り逃げることなくついてきた朱莉を振り返れば、サッと顔を背けてしまった。
また鼻をすすった彼女に近元は顔を覗き込むようなことはせず、出来るだけ優しい声で聞いた。
「玖凪さん、どうして泣いてるの?」
「……痛いの、イヤだから」
「血が苦手とかかな?」
「ううん」
背けたままで首を横に振る。
格好良い筈の巻かれた髪の毛が、今はもの悲しげに揺れた。
「自分を大切にしない人を見たら、ちょっと、切ない」
「…………」
殴ったら相手がどうなるか。それを教えようと思って、わざと殴られた。確かにそれは自分を大切にしていない行為だったかもしれない。
それでも、と近元が口を開こうとすると、先に慌てたように「違うよっ」と朱莉がまた首を振った。
「近ちゃんが自分を大切にしなかったわけじゃないよ。格好良いし、えらいっていうのもウソじゃない」
「でも、でもね」と続ける声はまた震えている。
(そういえば)
彼女の母親は人と関わるのが苦手で、いつも部屋に引きこもっていると一年の時の担任だった教師に聞いた。
父親が海外で単身赴任をしているが、家には明るい外人の祖母が一緒に住んでおり、母親は母親で小物を作って売っているようだ。
家庭的に暗い問題を抱えているわけではないと彼女自身も言っているらしい。
それでも、もしかしたら『自分を大切にしない』ことが母親に一度くらいはあったのかもしれない。
「ごめん、玖凪さん」
「ううん。近ちゃんは悪くない」
朱莉は顔を上げ、ポロポロ涙を流しながらも笑顔を作って言った。
「ただ、切なくてちょっと泣いちゃう朱莉ちゃんなのです」
「――――っ」
その姿がそれこそ切なくて、苦しくて、胸の中がグッと空気が無くなったような感覚になる。
気付けば勝手に腕が伸び、彼女のことを抱きしめていた。
教師としてあるまじき行為。でももう不審者が出たこの間、この子のバイト先まで行ったのだから、今更だ。
開き直れ。開き直ってしまえ。
「大丈夫。大丈夫だよ」
窮屈に縮こまった自分なんて、クソくらえだ。
「俺は自分を大切にする」
「うん」
「ちゃんと大切にするよ」
「うん」
朱莉は抱きしめられたことを拒絶することなく、近元の背中に腕を回してぎゅっとワイシャツを握った。
「大切にしてね」
そして少しだけ離れれば近元の頬に先ほどよりもしっかり優しく撫でて、いつものような、星が弾けたような笑顔で言った。
「早くなーおれっ!」
赤い目元。涙で濡れたままの頬。咲き誇った笑顔に、頬を撫でる優しい手。
空気が無くなった筈の胸に、今度は沢山の酸素が送られる。それはまるで春風のように強くて、それなのに温かいそれに身を包まれ、気持ちいいと感じるような――あぁ、ダメだ止まらない。
溢れたそれは、止められない。
「好きだよ」
風に桜の花びらが舞うように、流されるままに言葉が滑り落ちた。
「玖凪さんが、好きです」
でもそんな簡単に舞ったわけじゃなくて、冬を越え花芽ができ、つぼみとなって春を待つ。温かい太陽に照らされてようやく咲いた花。
決して軽い言葉や気持ちじゃない。
「……うん」
少し驚いたように朱莉は目を開き、それから「へへ」と笑って近元の肩に額を乗せる。
(えっ)
そんな反応に逆に近元が驚いてしまったが、すぐに彼女は顔を上げて、幼い子供のように手をグーにして目を拭った。
目が合えば、「ニシシ」と笑う。
「あんがと! 近ちゃん!」
両腕が伸びたかと思えば、近元の肩を両手で強くパンパンと叩く。まるで若者に活力を与えようとする目上の方みたいだ。
それから朱莉はクルリと一回転し、元気になった巻き髪を引き連れて例のごとくサムズアップ。
「ここまで生徒を大切にしてくれるって、すごいと思う! やっぱり近ちゃんって素敵な先生! ありがとさんさーんだね!」
「あの、えと」
中途半端に開いた腕。
それは再び彼女を抱きしめることなく、そしてそのまま朱莉は跳ぶように一歩腕の外へ出た。
「泣き顔を見られたのは恥ずかしいけど、でも近ちゃんだから良し!」
「玖凪さ……」
「あ! そろそろバイト行かんと!」
「色々ありがとんとん」と言いながら近元の頭をポンポンと叩き、それから「またねー!」と軽く手を振って、そのままスキップをするように保健室を後にした。
まるで強風。まさに春風。いや、外はきっともう夏かと思えるような日差しだと思うけれど。
「…………」
再び訪れたガランと音を立てたかのような静寂。だが先ほどとは全然違う。全く違う。
ひとり残された保健室に近元は、行き場を無くしていた腕を脱力するように下ろした。
「えぇ……」
抱きしめた腕を拒否されたわけじゃない。
好きだと言った言葉に引かれたわけでもない。
それでもこれは。
「えぇ……?」
これは、ねぇ?
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