空クジラ

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 どうしてクジラは間違えずに小魚だけを食べられるのだろうと思った。地面から見ると、鳥の群れと小魚の群れはほとんど同じに見える。  公園の原っぱの斜面に寝転んで、ぼくは空を眺めていた。  たぶんあれは魚の群れだ。シュウが見たら種類まで教えてくれるのだけど。群れはひとつの生き物みたいにまとまって、公園の空をふわりと通りすぎていった。  ぼくの住んでいるこの町は、周りにある豊かな山と北からの冷たい風のおかげで栄養豊富な空なのだと、シュウが教えてくれた。それを目当てに小魚の群れが集まり、その小魚を狙ってクジラが来るのだ。そのクジラを見に、遠くからホエールウォッチングにやってくる人たちもいるらしい。  スケッチをしに来たはずだけど、風が気持ちよくてさっきからずっと寝転んでいる。  顔の上をたんぽぽの綿毛が舞っていた。  綿毛は宙をふわふわして空の生き物みたいだけど、木や草や花は地面に根っこをはって育つから陸上の生き物なのだというのは、理科の授業で習った。 「クジラ見たことある?」  中学一年の新学期、教室でぼくの前の席になったシュウが聞いてきた。 「うん。そんなにすぐ近くじゃないけど」  ぼくが答えるとシュウは目を大きくぱちぱちさせ、 「いいなあ。オレ動物大好きなんだ」  と本当にうらやましそうに言った。  春にこの町に引っ越してきたばかりのシュウはクジラを見たことがなくて、この町でクジラを見られるのを楽しみにしているらしい。  シュウの生き物好きは筋金入りだ。  絶対に生物部に入ると初日から言っていた。部は廃部寸前だったけど、あるなら入るしかないと入部して、一年生にして一学期のうちに部長になってしまった。  なんたって部員は、一度も顔を見たことがないという幽霊部員の三年生が二人とシュウの三人。つまり、実質シュウだけ。  一人で楽しいの? と聞くのはちょっと失礼な気がしたので 「退屈しないの?」  と聞いてみた。 「全然。やることいっぱいでいそがしい」  シュウは元気よくそう言った。 『サバンナ特集! 今週から三回にわたってアフリカのサバンナの動物を紹介します。場所は世界遺産にも登録されているセレンゲティ国立保護区です。ここにはぼくたちが動物と聞いて思いえがく生き物がものすごくたくさんいます。ライオン、アフリカゾウ、キリン、カバ、シマウマ、チーター、ナイルワニ……とても書ききれません! 今週はその中から……』  そんなに人がたくさん通るわけでもない一階の生物室前に、シュウの情熱のこもった「生物部新聞」が貼られている。A3用紙いっぱいに動物の生態や習性が事細かに書き込まれている。  大きさ、生息地、食べる物、特徴、気性が荒いとか警戒心が強いとか、古代エジプトでは神様だったなんてことまで。  ある日の授業終わり、ぼくが部活に行こうと準備をしていると、シュウが神妙な顔で「カズヤって美術部だよね」  と、聞いてきた。 「そうだよ」 「たのみがあるんだけど」  シュウは書きかけの生物部新聞を広げた。ときどき休み時間に書いているのを見ていた。普段の休み時間のシュウは、みんなとしゃべったり、体育に早めに行ってバスケのゴール対決してたり、英語の宿題を忘れて慌てたりしてるけど、たまにすごく集中して新聞を書いているんだ。  シュウは、アフリカゾウとインドゾウのちがいを説明するための絵に苦労しているのだと言った。説明文なら無限に書けそうなのに、絵になると彼は急にたよりなかった。何度も消しゴムをこすったあとがあって、アフリカゾウはゆるキャラみたいな完成形だった。 「いいよ。描くよ」 「ほんとう?」  ぼくが答えると、シュウは目を大きくぱちぱちさせた。 「ありがとう。それじゃ新聞のはしっこにさ、文・生物部シュウ、絵・美術部カズヤって書いたらかっこよくない?」 「それ、プロっぽいね!」  ちょっと手伝うだけのつもりのぼくも、それを聞いて乗り気になってしまった。そうして生物部と美術部で業務提携がされたのだ。  美術部はたまに外に写生に行く。校庭もいいけど、先生に許可を取って屋上に上がるのがぼくは好きだ。屋上に上がるとどこよりも空は広く見える。真上を見上げるとぼくと空しかない世界になる。  最近は晴れた放課後の屋上で、給水塔タンクの横をピンク色の魚の群れが泳いでいる絵を描いた。空が青くてタンクが白くて魚がピンクなのがきれいで楽しかった。 「このへんにいるピンクの魚なら、ハナダイの仲間だね」  絵を見たシュウは専門家みたいなことを言った。描いた絵に「上手いね」か「きれいだね」以外の感想をもらうことはあんまりなかったから、それは新鮮だった。  生物部新聞の挿絵は図鑑の写真を見て描いたり、シュウと一緒にパソコン室で画像を探して描いたりした。  なかなかむずかしくて楽しかった。上手く描けたと自分で思っても、シュウから「この模様を正確に描いて」とか「この種類はもう少し後ろ足が太いんだ」なんて注文が入る。挿絵は新聞に役立たないといけないのだから、ぼくはなるべく注文通りに描く。上手い絵と正確な絵というのは時にちがうのだと、ぼくは初めて知った。 「クジラは見れたの?」  挿絵をひとつ無事に仕上げて一緒に帰り道を歩きながら、ぼくが聞いた。 「今は時期じゃないよ」 「あ、そうなんだ」 「秋から冬に、ザトウクジラが南の空に回遊してくるのが、一番見れる確率は高い。マッコウクジラもいるけど、あいつらは高度の高い空にいることが多いんだよね」  本当は今にも目の前の空に現れてほしいと思っているみたいに、シュウは上を見上げて言った。  ぼくがクジラを見たのも、そういえば冬だった気がした。家族で行った公園で、「カズ、クジラがいるぞ」とお父さんが指さす方を見ると、クジラが大きな体をゆっくり回転させて雲に入っていくところだった。 「あっハタタテダイだ」  生垣の横をふよふよ泳いでいる魚を見つけてシュウが言った。  きれいなしましま模様。絵に描いたらどうなるかなあ。ぼくならそんなことを考えるしましま模様も、シュウは種類や生態のことを考えている。同じものを見ても全然ちがうことを考えている。  夏休みになるので、生物部新聞はお休みにすると生物部部長は決めた。夏休み、ぼくとシュウはどちらもおばあちゃんの家に行った。ぼくは東でシュウは南の方だった。きっと南の生き物たちを、目を大きくぱちぱちさせてたくさん見ているだろう。  夏休みが終わりに近づいたころ、ぼくの家にシュウから電話がかかってきた。 「計画を立ててるんだ」  ベンチャー企業の若くて有望な社長が話す事業計画のようにシュウは言った。 「生物部の文化祭の計画だよ」  それは二ヶ月も先の十月のことだ。美術部も作品を展示したりはするはずだけど準備はこれから。夏休みの今から考えているなんて、これは壮大な事業計画だ。 「絵描いてほしいんだ。挿絵じゃなくてもっとすごい大きいやつ」 「大きい絵? やりたい。楽しそう」 「でしょ」  シュウはそれだけ言って、あとはまた新学期に話すね、と話を終わらせた。  二学期第一回目の生物部に、シュウはずいぶんと大荷物でやってきた。ダンボールを何枚も抱えている。 「本当は一部分だけでも実物大で作りたかったんだけど、それだとヒレくらいしか教室に入らないんだ」  そう言って、ダンボールを広げて生物室の床に並べた。その横で、図書館で借りてきた図鑑のクジラのページをひらく。 「ダンボールで形を作って、絵を描いて、クジラを作るんだよ」  シュウは黒板と同じくらいに広げたダンボールの端から端までを動き回り、このへんに目があって、ここにヒレがあって、尾びれはこんな感じで、と説明してくれる。本当にそこにクジラが見えているようだった。 「すげー」  想像して、思わずぼくはそう言った。シュウはにこにこして「カズヤなら描けると思うからさ」と言った。  ぼくたちはすぐに作業に取りかかったけど、シュウは夏休み中に見つけた生き物の話とかはあまり話してこなかった。あんまり見つからなかったのかな。 「夏休み楽しかった?」  気になってぼくの方から聞いた。うん、とさっそくダンボールをハサミで切るのに苦戦しながらシュウは答える。 「おばあちゃんの足が前より悪くなって大変そうだった」 「へえ、そっか」  ダンボールの作業が大変で話はそれきりになった。  大がかりだった。シュウは毎日昼休みと放課後を使って少しずつクジラの形を作った。ぼくは放課後の美術部の時間をちょっとずつ使ってシュウを手伝った。  職員室で先生に頼んで、図鑑の写真を拡大コピーさせてもらった。それでもせいぜい両手で広げられるくらいにしか拡大できない。それを見て、シュウがダンボールを切って繋げて形を作る。数センチの微調整をしたり、イスに乗って(こっそり机にも乗って)高いところから見て形を確かめたりして、クジラの形に見えるように作っていった。  色を塗って模様を描く段階になったら、ぼくの出番だ。  大きい絵は大変だ。図鑑の写真だと小さくてよくわからないところもちゃんと描かないといけない。お腹の白い部分の模様とか、ヒレのつけね、小さな目の形がどうなっているのか、シュウにもわからないことはたくさんあって、二人でウンウン言いながら描いた。 「絵が描けるってどんな感じ?」  シュウが聞いた。それはシュウがよくする言い方だった。ほら穴に住むってどんな感じかな。体長三センチってどんな感じだろう。 「頭の中で想像したことが描きながらどんどん広がって、その中にいるみたいになる」  ダンボールに絵の具を塗りながら答えた。  大きなクジラは、描いていくうちにぼくの中でどんどん大きくなっていた。  クジラの皮膚の感触を手のひらに想像した。今ここにクジラがいたらぼくの目の間の光景はどんなふうに見えているんだろうと、大きな体に似合わないような小さな目を想像した。山や建物を見ろして雲の中をふんわいと泳ぐ気分を想像した。  そういう時にぼくはクジラになりたいとかなれると思うわけじゃなかったけど、でも全然関係ない生き物とも思えなくて、やっぱりぼくの中でクジラがどんどん大きくなる、とばかり思った。  二ヶ月もあると思っていたのに、あっという間だった。  すっかり秋になったころ、ぼくたちのクジラは完成した。「足元にいたらクジラじゃない」というシュウのひとことで、完成したクジラを生物室の棚の一番上に乗せるという重労働は想定外だったけど。  でも下から見上げると、ぼくたちのクジラは本当にクジラらしくなった。 「完成だ」  見上げてぼくが言った。長い胸びれを広げ、尾びれをくねらせ、空の高いところをゆっくりと泳いでいるザトウクジラだ。シュウも隣に来て、二人で見上げた。 「魚とかイルカとかクジラって、大昔は海の生き物だったって説もあるんだよ」  急にシュウが言った。 「うそお。水の中じゃ息できないじゃん」  信じられなくて反論した。シュウはいろんなことを知っているけど、これは突拍子もない話だ。 「息止めてたんだよ。たまに息つぎして、それで深海まで行ったりしてたって。あ、でも魚は水からでも酸素をとりこめる体のつくりだった説が有力だけど」 「無理だよ。ずっと息止めて生きるなんて」 「ずっと息してるより、たまに息つぎするだけで済むならその方が良くない? だから空気の薄い高い空も平気だって説らしいよ」  説得力があるような、言いくるめられたような、わからなくてぼくは考え込む。  シュウはごろりと床に寝転がった。背中で床の感触を確かめて、自分が陸上の生き物だって確かめるみたいに。寝転がったまま話を続ける。 「空の風力に乗って泳ぐか、水の浮力に乗って泳ぐかはあんまり変わらないんじゃないかな。ずっと地面に立ってる陸上の生き物の方が、もっと大変だと思う」  確かに、魚やクジラは疲れても座ったりする必要はない。ぼくもシュウのとなりに寝転んだ。その体勢でふわりと浮かんでいるのを想像してみる。 「ずっと地面に立ってなくて良ければ、足が悪くなったりもしないのに」  シュウが呟く。考えていることがわかってぼくはだまった。足が悪いというシュウのおばあちゃん。  突然シュウが飛び起きた。  生物室の窓を、まるでえものを見つけたかのような、逆に天敵の気配を察知したかのような目で見ている。ぼくは驚いて声をかける。 「どうしたの」 「クジラ」 「えっ」  吸い込まれていってしまいそうなくらい、窓の外にシュウはくぎづけになっていた。 「空にクジラがいたんだ。窓の外で一瞬クジラの尾びれが見えた。本当だよ」  ぼくも窓を見たけど何も見えなかった。でも、シュウが見まちがえたりするわけないと思った。 「どっち」 「あっちのほう」  二人で窓を開けて身を乗り出す。校舎が邪魔で、一階からじゃほとんど見えない。 「シュウ、屋上行こう」  驚くシュウの腕を引いてぼくは教室を飛び出した。絶対に見なきゃ、と思った。想像しているだけじゃなくて。 「職員室で鍵借りないといけないんでしょ」 「屋上の鍵、実はこわれてる。ぼく知ってるんだ。ドアノブをちょっと角度つけてひねると開くんだよ」  美術部の活動のため、と先生に申請してハンコをもらって、なんてやっていたらクジラは行ってしまう。ぼくに手を引かれて驚いて出てきたシュウも走り出した。  二人で三階まで階段をかけ上がった。グラウンドから野球部の声と、隣の校舎の音楽室から吹奏楽部の音が聞こえていたけどぼくらがいるここは静かだった。  最上階、行き止まりの階段。屋上のドアの前で深呼吸する。一気に階段をあがったから息がきれていた。シュウがぼくの手元を祈るように見つめた。焦ってはいけない。力が入ると開かないんだ。ひっかかりを外すように、すっとすべる角度を探して慎重にノブをひねる。ドアは開いた。  二人で外に飛び出した。ゼエゼエ息をすると秋の冷たい空気が肺を刺す。足が痛い。ぼくが陸上の生き物だからだ、と思う。  屋上の空は夕暮れだった。 「いた!」  シュウが叫んだ。 「ザトウクジラだ」  ずっと上、いたのは三頭のクジラだった。  長い胸びれを翼のように動かし、ギザギザの尾びれをくねらせ、ゆったりと空を泳いでいた。日が暮れ始めの白と赤と灰色を混ぜた色の空に、お腹の白い模様をすべらせていた。とてもゆっくりと動いていた。まるで違う時間が流れているようだった。  クジラを追って屋上のはしまで行く。 「こっち来て」  シュウに言った。  どうしてそんな大胆なことができたのかわからない。ぼくは屋上の給水タンクの柵を乗り越えた。ただクジラを見なきゃと思った。  シュウはもう驚いたりしなかった。ぼくに続いて柵を乗り越え、タンクのはしごをよじ登った。ぼくもその後ろからはしごを登り、クジラと、クジラを見上げるシュウを見上げた。  少しでも空の一部になれるというように、シュウが空に両手を広げた。はしごの上で不安定にぐらついている。ぼくたちが、陸上の生き物だから。クジラから見たら、ぼくたちは陸上に一生懸命くっついて生きているように見えるんだろう。  ぼくはぎゅっとはしごをにぎった。クジラにこっちを向いてほしいと思った。ぼくには手と足がある。陸上の生き物だから走れるし、フェンスを乗り越えるし、はしごを登るし、絵だって描けるんだ。  三頭のクジラはぼくたちのことなんて見えていないようにも、わかっていて気づかないふりをしているようにも見えた。尾びれで雲をたたいたり、速度をつけて泳いでくるりと方向転換をしてみたり、気持ちよさそうだった。  大きくて黒くて、その体は軽やかというのとも違う、ずっしり確かな存在感を持っていた。でもそんな重さなんて関係がないところに彼らはいた。  シュウが空に手をいっぱいに広げる。 「子育てのために北の空から来たんだ」  広げた手が空気をかく。はしごの上でぐらぐら不安定。でももしかしたら、落ちそうになった拍子にふわっと空を泳ぎ始めてしまうかもしれないと思った。もし人間も空の生き物になるとしたら、きっと最初の一人はシュウみたいなやつだ。  クジラとシュウを見つめる。頭の中に何度も思い描けるように。たくさん絵に描けるように。  シュウは空を泳いでもシュウのまんまなのだろう。広いところで目を大きくぱちぱちさせて、どんな生き物とも一緒に泳ぎたがって、クジラのことだって何でもわかるんだ。ぼくは後ろからながめて、それを全部絵に描こうと思った。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加