事の始まり

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「旦那様、そろそろ」  すると側に立っていたらしき、誰かの声が聞こえて来る。 「あぁ、そうだな。では、失礼」  男性はそう言うと、そのままくるりと志乃に背を向けた。  その瞬間、一つにくくられた男性の長く艶やかな黒髪が、サッと風に揺れ、その弧を描くような流れが、残像のように瞼に刻まれる。  どうも男性は車を待たせていたようで、道の脇に停めてあった四角い馬車のような自動車へ乗り込むと、そのままガタクリと鳴る音とともに消えていった。  志乃は、物珍しそうに自動車に集まっていた通行人に混じって、立ち去る車の影をそっと遠くから見送った。  まだ全身がどきどきと火照っている。  あんなに近くで、大人の男性と面と向かったのなんて、初めての経験だ。  それもあんなに美しい男性に。 「あんな方がこの世にいるなんて……」  志乃の口元から思わず言葉が漏れ出る。  そのまま志乃はしばらくの間、美しくて儚く今にも消えてしまいそうな男性の、風になびく長い髪を、ぼんやりと思い出していた。
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