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そんな時です。
――兄が現れました。
兄は突然片岡家に現れて、変わり果てた姿の花江さんに会うと、悔しげに言いました。
「ずっと来られなくてすいません。でも、何でこんな姿に……」
花江さんが兄に聞きました。
「あなたは今まで、何処にいたのですか?」
兄が釈明をします。
「私はあれから、本州で高校に入り、大学に入って水産の研究をしていたのです。主に養殖について研究していて……。そこで冨安家のご長男と知り合いになって。懇意になりました。そこで思い切って詫びをいれ、許されて今日伺ったのです」
「養殖の研究をしていたのですか?」
花江さんはとても驚いていました。
兄は飄々と答えます。
「はい。養殖の研究をして、養殖産業に力を入れている冨安家と近づきになろうと最初から考えて。そして、私とあなたの関係を許してもらおうと……。10年かかってしまいました」
花江さんは苛立ちを隠しません。花江さんに気の強かった昔の姿が戻ってきました。
「遅すぎます。私はそんな事も知らず、こんな身体に……。10年も何の音沙汰もなく……。だいたいあなたは私のことを、なんとも思ってなかったのでしょう?」
「そんな事、あるはずがない。好きでもないのに、あなたを助けるはずないでしょう? 海に落ちた花嫁を助けたら、私や妹の運命はどう転ぶかわからないのに」
花江さんはしばらく無言になりました。
そして、泣き出しました。
「私は……、あなたと妹さんの人生をメチャクチャにしてしまったのね。私は今まで、好きでもない私を助けるだけ助けて、何処かにあなたが逃げてしまったと、心の底から憎んで生きてきました。ごめんなさい。私は浅はかでした」
兄が優しく言いました。
「そんな事はどうでも良い。泣いてはいけない。体力を消耗します。元気なって、これからの人生を共に過ごしましょう」
「私は恥ずかしいです。正雄さんは、昔のままなのに。とても素敵なのに。私こんなになってしまって」
兄が花江さんを抱きしめました。
「軽くて細すぎる。健康になってください。これではイワシ干しのようだ」
花江さんが兄を怒ります。その言葉には活力が漲っていました。
「イワシ干しは酷いわ!」
兄はシュンとして謝ります。
「ごめんなさい。僕が、そのぉ……」
花江さんに怒られて、しょんぼりする兄の顔は、私が今まで見たことのない、兄の顔でした。
兄は花江さんの前では、あんな可愛い顔をするのかと、私は少し悔しくなったのを覚えています。
その日を境に花江さんは、食べて、運動して、寝てと貪欲に生きようとしました。お洒落もするようになりました。兄は大学があるので、平日は本州で生活し、週末になると島に通って来ました。そして兄は本州から帰って来ては、花江さんを怒らせていました。兄は女心が分からないのです。私は自分の夫が、美男子ではなくとも、兄のようでなくて良かったと思っています。
そして半年もそんな生活が続くと、花江さんは健康をだいぶ取り戻したように見えました。痩せてはいましたが、不健康な痩せ方ではありませんでした。
――なによりも、美しくなりました。
以前の氷のような美しさではなく、穏やかな春の木漏れ日のような美しさです。兄の存在が花江さんを、そうさせたのでしょう。
花江さんが兄に頼みました。
「あなたの暮らす本州で、私も暮らしたいです」
兄は心配そうでした。
「身体は良いのですか?」
「もう、大丈夫です」
それから花江さんは言いました。
「花嫁舟で、本州に渡りたい。花婿姿のあなたの船頭で、あなたの歌を聞きながら、海を渡りたいです」
兄は快諾し、大安吉日を選んで、兄と花江さんは、島から本州に渡ったのです。
花江さんが舟に乗ると、兄が舟を港から静かに離し、花嫁のために歌い出しました。
見送りにきた島人たちは、兄の歌と、花江さんの美しさに酔いしれました。
だんだん舟は小さくなって、兄の歌は聞こえなくなりました。
けれども、花江さんと兄の幸せは、3年で終わってしまいました。
花江さんが、子供を産んで亡くなってしまったからです。
兄は子供を連れて島に来て、子のない私たち夫婦に託しました。
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