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「どんな味がしたのかな?」
「えっ?」
食後のデザートに出した林檎を食べながら、君が開いていたのは「こどもの聖書」。カトリックの幼稚園に通っていた僕が卒園記念で貰ったものだ。引っ越す時に何で持ってきたのか覚えてないけれど、本棚の隅にあったそれを、君がいつの間にか引っ張り出していた。
「アダムとエバが食べた実」
「ああ、知恵の実?」
「うん」
昔々、神様は六日かけて、天と地、海と生き物をお造りになりました。神様はアダムとエバという人間もお造りになり自由に生活させてくれましたが、一つだけ忠告をしたのです。
「あの木になる実を食べてはいけないよ」と。
アダムとエバは約束を守り楽しく暮らしていました。しかしある日、悪いヘビに唆されて食べてはいけない木の実を食べてしまったのです。
食べた瞬間、二人は互いが裸だという事に気付いて酷く恥ずかしくなり、近くにあった大きな葉で身体を隠しました。
「甘かったのかな?酸っぱかったのかな?苦かったのかな」
君はフォークに刺した林檎を揺らしながら真剣な顔で考える。
「さぁ?」
僕は曖昧な返事をし、林檎を口にした。瑞々しい甘さと微かな酸味が口の中いっぱいに広がる。
「何で神様は食べちゃいけない木の実を作ったんだろう」
シャクリシャクリと大好きな林檎を咀嚼しながら、君はずっと難しい顔をしている。
「食べると知恵がつく代わりに、永遠の命を失う木の実。神様は最初から人間に知恵と寿命を与えた訳じゃない。どうするか、人間に委ねたって事だよね」
「委ねた訳じゃない。食べちゃダメって神様は言ったよ?」
解釈が違う、と僕は反論した。
「じゃぁ何でそんな木の実を作ったの」
「知らないよ」
僕は神様じゃない。
「でもヘビに唆されて結局食べてしまった」
君は不満そうに眉根を寄せた。
「知恵がつき善悪や恥を知り、楽園を追放されたんだ」
僕は食べる手を止めフォークを置いた。
君は不満そうにずっと林檎を咀嚼している。
「知恵なんかつかなければ良かった。そしたら何も考えず、永遠に愛し合えたのに」
良いことなのか、悪いことなのか。
堂々としていられる事なのか、恥ずかしいことなのか。
僕達は男同士の恋人同士。
この関係を受け入れてくれる人もいれば、拒絶する人もいる。そもそも自分自身が同性を好きである事に先ず戸惑いを覚え、自分自身を受け入れる事すら苦労する。
良いことなのか、悪いことなのか。
堂々としていられる事なのか、恥ずかしいことなのか。
「楽園に戻りたい……」
君は切なそうに呟いた。
時間は不可逆だ。アダムとエバにはもう会うことが出来ない。しかしもし仮に会う事が出来たなら、木の実を食べようとする二人を全力で阻止したのだろうか。
身体を与えたのは神様。
知恵を欲しそれを手にしたのは人間。
最初から知恵を与えなかったのは、神様の優しさなのだろうか。
知恵は暮らしを豊かにする。
でもそれは、時に僕たちを苦しめる。
楽園へは戻れない。
でも、
「今、僕たちがいる場所が楽園。それじゃ、だめ?」
君の目を見る。
「だめじゃ、ない」
君が嬉しそうに笑った。
きっと知恵の実は、この林檎のように甘酸っぱい。
知恵があるからこそ満たせる本能がある事を、僕達は知っている。
「林檎、もう一個食べる?」
「うん」
君は聖書を閉じて本棚にしまった。
僕は林檎を切るためにキッチンに向かう。
大学二年生から付き合い始めた君と僕は今年社会人になり、それを機にこのマンションに引っ越し同棲を始めた。
築十年の1LDK。
ここには食べてはいけない木の実は無いし、唆す悪いヘビもいない。追放される事の無い楽園。
ストン、と林檎に包丁を入れる。
ふわりと広がる甘い香りを、僕は胸いっぱいに吸い込んだ。
おわり
参考図書
女子パウロ会発行「こどもの聖書」
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