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 翌日の仕事終わり、木場はスマートフォンの地図を頼りに優花の店に向かっていた。サンシャイン60通りの一本裏手にある通りの大衆居酒屋だ。若者であふれかえるメインストリートとは趣が異なる、昭和の枯れた雰囲気が漂う小路だ。  赤い暖簾(のれん)をくぐり格子戸を引いて店内に顔を覗かせると、優花が右奥の二人がけのテーブル席に案内してくれた。まだ宵の口のせいか、さほど広くない店内の客は二組だけだ。  優花も向かいに腰を下ろし「今日は特別にお休みもらいました。でも混んできたらごめんなさい」と、笑顔でメニューを差し出した。優花のお薦めのつまみを何品か注文し、生ビールで乾杯した。  木場は優花が二十三歳だと初めて知った。娘の心陽の四つ上だ。優花は大学を卒業してから就職をせずに、バイトをしながら歌手を目指していた。この店のバイトは学生時代から続けていて、もし歌手の夢が叶わなかったら雇ってやると店主が言ってくれていると笑った。優花が小学生のときに両親は離婚して、母親は昼はパート夜はスナックで働いて優花を育てたようだ。優花が歌を好きになったのは、母が勤めるスナックで仕事が終わるのを待っている間にカラオケで流れる曲を聴いて育ったからだった。こんな若い娘が昭和歌謡までカバーできることが不思議だったが腑に落ちた。また、母親も歌手志望だったが叶わず、その夢を優花が引き継いだと言った。路上ライブで弾いているギターは母からのプレゼントで、無理してローンで買ってくれたようだ。しかし、母は体調を崩し現在は昼間のパートの収入しかなく、優花は大学の奨学金の返済もあるため、母子二人で質素に暮らしていた。  木場は優花の話に耳を傾けながら、身につまされた。優花の両親の離婚は家庭内暴力が原因だったようで自分とは事情が異なるが、不甲斐ない父親のせいで家庭が壊れてしまったのは同じだ。由美子と心陽は元気に暮らしているのか。金に困っていないだろうか。 「木場さん、だし巻き卵きました、超おすすめです!」  うん、と我に返って木場は箸を伸ばした。一切れ口に放り込むと、ふんわりとした卵から出汁がじゅわっと染みだして、鰹風味のほのかな甘味が舌に広がっていった。だし巻き卵は由美子の得意料理で心陽も大好物だった。「何か食べたいものある?」と訊かれると、二人して「だし巻き卵!」と声を揃えて、「また?」と妻を苦笑させたものだった。 「木場さんどうですか? お味は?」 「うん、すごく美味しい」  鼻の奥がツンとして、木場は顔を伏せたまま答えた。  優花とのひとときはあっという間だったが、久しぶりの穏やかな時間だった。四年の懲役を終えて社会復帰してから今の仕事に落ち着くまで、職を転々としてきた。小さな部品メーカに勤めたこともあったが、木場の旋盤の技術は時代遅れで、コンピューター制御が主流の職場にはついていけなかった。元々社交的なタイプじゃない上に前科者という負い目が加わり、近寄り難い雰囲気を(まと)っていたことも職場に馴染めない原因だった。しかし、駐車場誘導員の仕事はしっくりきた。ようやく平穏に暮らせる。それだけで十分だった。ところが、優花と食事をした翌朝出勤すると「昨日の夜、尾藤って人が木場さん訪ねてきたよ」と同僚に告げられた。木場は形容し難い不吉な予感に顔を曇らせた。
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