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 外食が二日続くのは覚えていないくらい久しぶりだった。昨夜は優花で、今夜木場の対面でグラスを傾けているのは尾藤だった。朝出勤したとき、昨夜尾藤が訪ねて来たと聞いてから、鉛を飲んだように心が重くなった。この日はBシフトで夜の十一時に仕事を終えた。従業員通用口を出て薄暗い路地を数歩進んだとき、背後から車のヘッドライトが近づいて来て、木場の長い影をアスファルトに落とした。昨日自分を訪ねてきた尾藤に、ご丁寧に同僚が今夜の自分の退勤時間を教えていたのだ。  尾藤は後部座席の窓から顔を出し「木場さん、耳寄りな話があります。一杯いかがですか?」と、親しげに言った。かつて嵌めた相手に一体どんな神経をしていたら、何事もなかったように話しかけることが出来るのか。木場には理解出来なかった。  尾藤の誘いに乗らない選択肢もあった。自分が断れば尾藤が一旦は帰るであろうことは予想できた。しかし尾藤のことだ、今の職場に自分が前科者だと伝え自分を追い込むことなど容易(たやす)いだろう。そう考え、尾藤の狙いを探っておいた方が得策かと、言われるままに後部座席に乗りこみ、およそ十五年ぶりに対面するに至った。  池袋で最上級のホテルの高層階のバーからは、東京の夜景が一望できた。木場はさすが四つ星ホテルだと感心したが、よれたTシャツと皺だらけのチノパンに薄汚れたスニーカーの自分にはおよそ不釣り合いな洒落た内装に居心地が悪かった。おそらく自分一人ならドレスコードに引っかかり入店を断られただろう。夜の雲間に遠ざかる飛行機の赤色灯をぼうっと眺めていたら、尾藤が給仕に二杯目のブランデーをオーダーし、本題を切り出した。 「じつは池袋の再開発絡みで木場さんに相談がありましてね。偶然お会いできてよかったです」 「偶然? 僕を探していたんじゃないんですか? また嵌めるつもりで」 「いや、本当に偶然なんです。真っ黒に日焼けしてたので、はじめは思い違いかと思いましたが目を見て木場さんだと確信し声をかけました」  木場は「そうですか」と答えたものの、内心は信用していなかった。 「それで尾藤さん、どういったご用件ですか?」 「再開発が順調に進んでいないことはご存知ですか」 「そうなんですか? でも至るところで工事してるように見えますけど」 「それは話がついたところです。全体が順調というわけではなくて、立ち退きが難航している場所もあります。そこに弊社が絡んでいて、頭を抱えているところです」 「アーバンエステート東京でしたか、御社の不動産部門」 「さすが木場さんだ、よく覚えていますね。もっとも、とうの昔に会社名は変えましたが。話を戻しますが、二週間後に何度目かの住民向けの説明会を行う予定なんですが、反対派のリーダーがなかなか厄介でしてね」  尾藤は琥珀色の液体をごくりと飲んで眉を(しか)めると、スーツの内ポケットから写真を一枚取り出して、テーブルの上を滑らせた。四十代と思しきポロシャツの襟を立てた男が写っている。遠目から盗撮したようなアングルだが、健康的に日焼けした凛々しい顔立ちの男だということは木場にもわかった。 「この人の説得に苦労していると……。ただ、僕には何の関係もない話です。御社が粘り強くこの人を説得すればいいでしょう」 「話が通じる相手であれば、難儀しませんよ」と、尾藤が険しい目を木場に向けた。 「木場さんは人に溶け込める。説明会場に紛れても違和感がない。まさに適任です」 「どうゆう意味ですか?」と、木場が小首を傾げる。 「詳しくはまだ言えません。木場さんが協力してくれるなら、前金で三百万、足がつかない現金でお渡しします。詳細はその時に説明します。残りは仕事が終わった後に三百万」  尾藤はテーブルの上で組んだ両手に顎を乗せて、返事を促すように無言で木場を見た。 「そんな中身もわからないのに……それと、別に僕は金に困ってもない。帰ります」  木場は語気を荒げて言い放つと、乱暴に椅子を引いて立ち上がった。 「尾藤さん、もう僕に構わないでください」  木場が足早にテーブルの横を通り過ぎると「木場さん、ご家族はお元気ですか?」と背中に声を投げられた。木場が慌てて振り返ると、尾藤は感情が消えたような目で口元を歪めていた。木場は狼狽した。その場から一歩も動かずに、尾藤の目を真っ直ぐに見返した。ハッタリに決まっている。もう十五年も前だ。刑期を終えた後、木場はこっそりと三人で暮らしていた戸田のアパートに行ってみたが、そこに家族はいなかった。いかにも尾藤らしい、人の心を弄ぶ大口だろうと自分に言い聞かせるも、ノミ屋の富重のことが不意に過ぎった。富重はとっくにこの世にいない。富重はあの後も、ノミ屋の金を着服していたことがバレたあげく、ビルから転落死した。くたびれた作業靴の横に遺書もあったらしいが、遺体には激しく暴行された痕があったという。ただ犯人は見つかっていないし、自殺で処理された。  木場が裏帳簿に加担しながら抜けられなかったのは、富重の末路を目の当たりにしたことも大きかった。家族を守るために、あのときはああするしか無かった。ただ、いつまでも脅しに屈していればおそらく一生、尾藤にいいように利用されるだろう。木場は迷いを断ち切るように「失礼します」と、バーを後にした。
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