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銀の籠に君を入れて
玲は部屋の中からなじんだ声で呼ばれるまで、ひととき遠い頃に戻っていた。
親友の眞一が闘病の末亡くなった、あのときが十年前。それから重ねた日々が後ろから追い付いてきて、ようやく振り向く。
「玲?」
眞一が一人で育てていた夕音は、もうすぐ高校を卒業する。首を傾げてこちらを見る仕草が、他愛ない。
涼しげな目の形、相変わらずすぐに跳ねる柔らかい髪。澄んだ目が、まだ幼い。
「ごめん。今行くよ」
玲は笑ってベランダから中に入ると、クローゼットの方に向かう。
夕音は何気なく玲の袖を引いて言う。
「このスカイブルーのネクタイがきれい」
「じゃあそれにする?」
「うん。締めて、玲」
夕音は小さい頃から玲のウォークインクローゼットで遊ぶのが好きだった。桜の花びらのような手で玲の服に手を伸ばして笑っていた。
クローゼットの中で夕音を引き寄せて、玲はスカイブルーのネクタイを締めてやる。
もちろん子どもの頃に比べて夕音の背は伸びたが、まだ玲の胸辺りまで。男の自分を超すことはない。
弾んだ夕音の呼吸が玲の手をくすぐる。玲は苦笑して問いかけた。
「苦しい?」
「ううん」
血管の透けた細い首にタイを巻き付ける、小さな罪悪感。親代わりの自分が抱いてはいけない感情なのだと気づきながら、少し楽しみにしている自分もいる。
「……行こっか」
ほほえんでクローゼットの出口に目をやった玲に、夕音はうなずいた。男性にするというよりは、小さな子どもが母親に甘えるように玲の腕に自分の腕をからめる。
小さな秘密を胸に収めて、玲は夕音をエスコートしてリビングに連れていく。
今日は玲のマンションでのホームパーティの日だ。ピアニストをしている玲の公私の混じった友人たちを、家に招く。
リビングに入ると、夕音は腕を下げて玲の手を外す。玲は不思議そうに夕音に問いかけた。
「どうかした?」
「いつまでも玲にべったりじゃだめだから」
答えた夕音の声からは、スカイブルーのネクタイにはしゃいでいた、弾んだ調子は消えていた。
夕音は人の感情に敏感だった。客人たちが、華奢で危うい風貌を持つ夕音に興味を持っているのに気付いている。
けれど夕音はそれで引っ込んだりはしなかった。夕音は玲を置いて人の輪に入っていく。
戸惑いながら後ろ姿を見送った玲は、友人たちに笑われる。
「君の眠り姫はそろそろ大人だな」
その言葉に、玲は冷たい汗が背をつたったのを感じた。玲は口の端を下げて言う。
「まだ子どもだよ」
冗談交じりに友人たちに笑いかけると、彼らは一様に苦笑いを返す。
余興で友人たちが順々に演奏を始めていた。流れていく旋律の中で、玲は窓に肩を預けながら目を閉じる。
外は紺色に静まった夜、だが目を閉じればいつでもそこに霧雨が降る。
小さな夕音は、よく空にいっぱいに手を伸ばして触れようとしていた。玲はいつも後ろからその体を抱き留めた。
空は触れられないものなんだよと夕音に言い聞かせながら、いつかその空に溶けてしまう彼女を想像して恐れていた。
目を開いて彼女を見ると、夕音は人の輪の中でぎこちなく作り笑顔を浮かべるのを学んでいた。
籠に入れるように守り育ててきたあの子が大人になろうとしている。
……連れていかないでくれ、眞一。
ガラスに映った愛し子をみつめるうち、玲は自分が化け物に変わっていくような錯覚を覚えていた。
夕方から空は壊れたような雨が降り始めて、慌ただしく客人たちが帰っていった。
玲は夕音をみつけてたしなめる。
「こら。まだ髪が濡れてるよ」
「すぐ乾くもん」
風呂上りの夕音の頭にタオルをかけると、彼女はむすっとしながら大人しく拭かれていた。
指にからむような髪をドライヤーで乾かしてやってから、二人で温かいミルクを飲む。外で雷がやかましく響くのはどこか遠い世界のようだ。
マンションの中にはもちろんリビングもダイニングもあるが、夕音と玲はウォークインクローゼットの冷たい床に、お行儀悪く横になるのが好きだった。
ここは遊び場で、秘密基地のようなところだった。ネクタイやアクセサリ、時計にベルト。至るところにつりさげられたそれは、夕音のおもちゃだった。
「……玲?」
玲はふいに後ろから夕音を抱き寄せて、その首筋に口づける。
まだ濡れている髪から、夕音の匂いがした。ざわつくような熱が体を走っていって、奇妙に冷静な頭でこれは良くないことなのだと思う。
何か言いかけた夕音の唇を自分の唇で塞いで、その甘さに酔う。けれど手は淡々と夕音のパジャマのボタンを外していた。
お城みたいと幼い夕音が喜んでいたクローゼット。影がいくつも落ちている今は、拷問部屋のように見えた。
目を上げれば鏡がある。暗がりで輪郭もあいまいなはずなのに、自分の淀んだ目だけは見えた気がした。
露わになった白い肌を見下ろして、玲は波の無い声で問いかけた。
「抵抗しなくていいの」
玲の声は問いかけというより、独り言のように聞こえた。
「僕は最低なことをしようとしてるのに」
夕音の肩は震えていた。先ほどまで髪を乾かすのも嫌がっていた暑さだったのに、夕音の頬は青ざめていた。
じわりと夕音の目がにじむ。反射的に玲の中の親心が、彼女を抱きしめたくなる。
夕音は涙を落として、同時に笑った。
「……うん。ひどくして」
玲は何を言われたかわからず、ただ夕音をみつめかえした。
夕音はぽろぽろ涙を落としながら言う。
「知ってるよ。お父さんが死んだとき、玲も連れて行かれそうだった。でも私がいたから、行けなかったね」
夕音は玲の頬を両手でつつむ。その手を玲の涙が濡らしていくのを、玲は自分で止められなかった。
夕音は玲の涙を手で拭って言う。
「玲、一緒に悪い子になろう? そうしたら怖くない。二人でひどいことをしよう」
玲は嗚咽を飲み込んで、夕音にかみつくようなキスをした。
どれほどついていきたいと思っただろう。それ以上に何度、彼より愛おしい子をあやしただろう。
玲は何のいたわりもなく突いて、夕音の体内に繰り返し精を吐き出した。
外は嵐のような雨が降り注いで、いつまでもやむ気配がなかった。
告白しよう。かつて僕は君に、眞一に恋をしていた。
でもその恋より悪くて厄介な、愛おしさというものをみつけた。
夕音に揺さぶられて目覚めた朝もまた、むずかゆいほどに幸せだった。
「夕音。……夕音、もういいから。離して」
肩を押しやろうとした玲の声が震える。夕音は首を横に振って、玲の体で遊ぶ。
「やだ。玲はこれが気持ちいいんでしょ?」
玲は夕音を引き寄せて彼女の頭を抱くと、微笑んでうなずく。
ふいに玲は艶やかな笑みを浮かべて身を屈めた。
「玲、違……っ。私がするの……!」
「だめ。次、僕の番」
毎夜のように玲と夕音が体をからめるようになって、もうすぐ一年になる。
たぶん都合のいい夢を見ている。ゆりかごに入れて預けられた子どもを自分のものにした男など、親友に顔向けはできない。
「僕らはもっと悪くなれるよ、夕音。……行こう」
押し殺したため息と一緒に夕音の中に入る。喉の奥で笑う気配と共に律動を始める。
「うん……れい、好き」
甘い声音で笑う夕音と身をからめていると、罪悪感もどこかに消えてしまう。
すまないな、眞一。お前と生きていた頃より、僕は幸せになってしまった。
玲は縛るように夕音を抱きしめて、今日も籠の中で彼女と睦みあっている。
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