12人が本棚に入れています
本棚に追加
「ほんとに、嫌じゃないですか?」
「ああ。嫌だったら、ちゃんと言う。約束したからな」
穂さんの表情は限りなく無表情に近いのですが、それでも眼差しは穏やかでした。大きな手が私の頭をぽん、とひと撫でしてくれます。
髪が汗で濡れていないか心配でしたが、その優しい手の感触が、どうしようもなく幸せです。
「ふふふふー」
私が笑い声を零したとき、校庭のほうから、放送委員の元気な実況がかすかに聞こえてきました。午後の競技が始まる時間かな。そろそろマリちゃんと合流しないと。
「もう戻るか?」
「はい、まだ競技が残ってますから!」
「頑張れよ」
「穂さんこそ、バイト頑張ってください! 来てくれて嬉しかったです。疲れなんて、ふっ飛んじゃいました」
立ち話だったのに、不思議なくらい全身の疲労感が消えています。今ならキュウリダンスをフルで踊れそうです!
「なら良かった。あと、差し入れ」
塩飴の袋をありがたく受け取ります。やっぱり穂さんは気遣い屋さんだぁ。
「ありがとうございます。元気も塩分もチャージさせていただけるなんて!」
「塩分は大事だからな。水分は足りてるか?」
「はい、昼休憩のときに、母さんから麦茶の差し入れがありました!」
穂さんは「そうか」と呟いて、ふと目を細めました。
「千春に更に元気をチャージする方法を、思いついた」
「なんと! やっぱり穂さんは天才ですね!」
「目ぇ閉じて」
「はい!」
私は素直に目を閉じて。
そして、魔法を知りました。
御伽噺に出てくるそれは、比類なく強力な魔法だったのだと、私はついに知りました。
「……え」
目を開けたときにはもう、穂さんは背を伸ばして立っていて、無表情で私を見つめていました。
ただ、「嫌だった?」と聞く声だけが、いつもより小さくて。
私は即座に首を振り、つい、右の指先で、自分の唇に触れます。
やや乾燥気味の、私の唇。
今、あなたに魔法をかけられた、私の唇。
「あ、あのっ、いいいい嫌なんてことは、ぜったい、ぜったいなくてっ」
顔が熱くて、心臓が、暴れてて、舌が、唇が、体が、震えて、なのに疲労感はどこかに消えて、そう、ほんとに、元気なんですけどっ!
キス。
唇への、キス。
はじめて。
生まれて、初めて。
最初のコメントを投稿しよう!