春愁1

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「ですね! 星とか宇宙って、不思議で綺麗ですよねぇ。私も、全然知識はなくて、有名な星の名前しかわかんないですけど、宇宙は好きです」  進行方向の南の空を、私は指さします。  月のない空の下のほう、明るく輝く星がぽつんとひとりで、私たちを見下ろしています。 「あれは、みなみのうお座のフォーマルハウト」 「強そうな名前」 「それ、私も思いました! 星の名前ってカッコいいですよね」  西のほうに、夏の大三角をつくるベガ、アルタイル、デネブが残っていますが、秋の一等星と言えばやっぱりフォーマルハウト。  秋の夜長のひとつ星。この星を見上げると、夜の美しさが身体に染み込む気がします。 「全然、星見たことねぇな。夜型人間なのに」  そう言って空峰さんは、頭を少し、持ち上げます。  私たちが歩く道は、静かです。道路の左右の家から、生活音や夕飯の匂いが漏れてはいるけれど、それはこの心地いい空気を崩しはしません。   「流れ星の観察とか、しませんか?」 「しない。神奈川で流れ星って見えるのか?」 「意外と見えますよ。駅前は明るすぎて無理ですけど、家のベランダから見えました」  夜空の話をしながら、私はこっそり空峰さんの横顔を見上げます。  星を探して細くなった目とか、喉仏のでっぱりとか、街灯を反射してチカチカ瞬くピアスとか。  そんなものを、記憶に残したくて。  だって……もう、空峰さんと会うことなんて、ないでしょう?   彼は大学生だし、生活圏もズレてるし、そもそも私に興味ない。会う理由なんて、ひとつもない。 「木島の家で見えるなら、俺の部屋でも見れるな」  空峰さんの呟きに、私ははっと視線を前に戻しました。もう家の目の前です。 「空峰さん、着きましたので……ありがとうございました。その、空峰さん」  立ち止まってお礼を言って、言葉を続けようとして、でも、続かなくて。 「えっと、私、」  空峰さんはどもる私を急かしません。  彼の冷たく澄んだ、静かな瞳を見ながら、私はどうにか言いました。 「楽しかったです! 空峰さんと、お話できて!」  零れた言葉があまりにつまらなくて驚きました。  確かに、楽しかったのは本心です。  でも、他に言いたいことがあるような。  もっと、他の言葉で伝えたい心があるような。  中途半端に口を開けたままの私に、空峰さんは。 「ああ、俺も」  唇の端を、ほんのり上げて。 「楽しかった」  ――笑って、くれた……? 「じゃあな」  空峰さんは、背を向けます。迷う様子もなく右へ曲がって、駅へ続く道へと入り……私は、ぼけっと彼の後姿を見送っていました。彼は一度も振り返りませんでした。 「……空峰さん」  唇が勝手に、彼の名前の形を作りました。  喉が勝手に、彼の名前を音にしました。  冷たい夜風が吹き付けても、体の芯は熱いままでした。  家に入る気が起きなくて、私は空を見上げます。  織姫と彦星から遠く離れて、ぽつんと輝くひとつ星。  秋の夜空って、空峰さんみたい。冷たくて、平静で、澄んでいる。  彼の笑顔は、まるで星が落ちてきたようだと。  世界に新しい色を加えるようだと。  私は、そんなことを考えながら、ただ立ち尽くしていました。  
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