9人が本棚に入れています
本棚に追加
/39ページ
4月と5月の狭間――兄さんは不安で仕方ない
疲れた。
4月は地獄だ。俺が勤める学生向けの教材会社なんて、特に地獄。とっても地獄……うう、しんどかった。だけど、どうにか4月は乗り切った。
これで地獄とはおさらば!
明日は土曜日!
そして、明後日は可愛い妹の誕生日っ!
残業を回避して無事帰宅。玄関扉を開ければ、ちょうど妹が二階から降りてきたところ。
「ただいまー」
「兄さんお帰りー。今日は天ぷらだって」
「へぇ、天ぷ、ら……?」
妹の顔をじっと見る。
大きな瞳は今の今まで泣いていたように、赤くなっていた。
「千春、泣いてたのか?」
「んー」
曖昧な返事、泳ぐ視線、急に始まる「て、て、て天ぷらーららーちくわー」という謎の自作ソング……間違いない、千春は泣いてたんだ。おそらく、原因は『あの男』だろう。
「千春、あの男になにをされた?」
「……は?」
途端に、千春は低い声を出し、目を細めた。完全に敵を睨む目つきだ。
「穂さんをそんな風に呼ばないでよ! だいたい、なんで兄さんに穂さんの話をしなきゃいけないの!?」
あー、やっぱりね。千春が泣いてたの、あの男のせいじゃん。
「ほら、あの男のせいなんだろ?」
「だから、その呼び方やめてっ!」
「じゃあ、『ハマの裏番』って呼ぶ? ……はっ、なぁにが『ハマの裏番』だ。こちとら剣道四段だぞ」
「段位でマウントとる兄さん、めちゃくちゃダサーい、穂さんの二つ名並みにダサーい」
おちょくる千春にため息を吐いて、俺は靴を脱いだ。真面目な声で、もう一度妹に尋ねる。
「千春、泣いた訳を話しなさい。心配するだろ」
「……穂さんが、早めに誕プレをくれたの。それで」
「それで?」
「きゃー穂さん素敵っっっ!! 大好きっっ!!」
千春は頬を真っ赤に染めてうずくまり、なぜか額を抑えて天を仰ぎ、うわ言のようにあの男の名前を呼ぶ。
穂さん穂さん穂さん、こうなった妹は止められない……俺は妹の恋心が氾濫する玄関から抜け出すことにした。もちろん、くぎを刺すのも忘れない。
「千春、もう少し冷静になれ。あいつは、意味もなく他人に暴力を振るうような奴だ。もし、同じことを千春に」
「穂さんはそういう人じゃない」
うずくまったまま、千春は俺を睨む。目が赤いせいで、強がっているようにも見える。
妹の彼氏、空峰穂は、不良だった。
裕福な家の次男で、家庭にも、学校生活にも問題はなかったのに、ある日突然、豹変したらしい――これは、神奈川県警に勤めていた伯父から聞いた噂でしかないけど。
だけど、何度も補導されるような不良だったことは、間違いない。
そんな人間と付き合うなんて危険すぎる! なにかあってからじゃ遅いんだぞ!
「あいつと付き合って、まだ一か月だろ。なにがわかるんだ」
「兄さんよりはずっと、穂さんのことわかってる」
千春はすっと立ち上がると、俺を追い越してキッチンに向かう。俺は妹の後ろ姿に向かって叫んだ。
「ああいう奴はなぁ、優しいのなんて最初だけだぞ!!」
「うるっさい!!!」
「冬真、あんたさっきから玄関でうるさい!!」
母さんからも怒られてしまったし、俺は妹の説得は諦めて洗面所に向かった。
鏡に映った俺の顔は死んでいる……千春、怒ってたな。少し、言い過ぎた? いや、ダメだ、千春がどれだけ不満でも、俺が、気を付けていなくちゃ。
『冬真、千春のこと、ちゃんと見ておくんだよ』
『千春は、大丈夫?』
姉さんから週に何度も、千春の様子を尋ねるメッセージがくる。
結婚して家を出た姉さんから、こんな頻度でメッセが送られてくるのは初めてだ。
姉さんは千春を心配しているし――自分の経験を思い出して、苦しんでいる。千春があいつと別れないかぎり、姉さんの心労も絶えないだろう。
俺が、千春を守らなきゃ。
俺は、『兄さん』なんだから。
最初のコメントを投稿しよう!