4月と5月の狭間――兄さんは不安で仕方ない

1/1

9人が本棚に入れています
本棚に追加
/39ページ

4月と5月の狭間――兄さんは不安で仕方ない

 疲れた。  4月は地獄だ。俺が勤める学生向けの教材会社なんて、特に地獄。とっても地獄……うう、しんどかった。だけど、どうにか4月は乗り切った。  これで地獄とはおさらば!  明日は土曜日!  そして、明後日は可愛い妹の誕生日っ!  残業を回避して無事帰宅。玄関扉を開ければ、ちょうど妹が二階から降りてきたところ。 「ただいまー」 「兄さんお帰りー。今日は天ぷらだって」 「へぇ、天ぷ、ら……?」  妹の顔をじっと見る。  大きな瞳は今の今まで泣いていたように、赤くなっていた。 「千春、泣いてたのか?」 「んー」  曖昧な返事、泳ぐ視線、急に始まる「て、て、て天ぷらーららーちくわー」という謎の自作ソング……間違いない、千春は泣いてたんだ。おそらく、原因は『あの男』だろう。 「千春、あの男になにをされた?」 「……は?」  途端に、千春は低い声を出し、目を細めた。完全に敵を睨む目つきだ。 「(すい)さんをそんな風に呼ばないでよ! だいたい、なんで兄さんに穂さんの話をしなきゃいけないの!?」  あー、やっぱりね。千春が泣いてたの、あの男のせいじゃん。 「ほら、あの男のせいなんだろ?」 「だから、その呼び方やめてっ!」 「じゃあ、『ハマの裏番』って呼ぶ? ……はっ、なぁにが『ハマの裏番』だ。こちとら剣道四段だぞ」 「段位でマウントとる兄さん、めちゃくちゃダサーい、穂さんの二つ名並みにダサーい」  おちょくる千春にため息を吐いて、俺は靴を脱いだ。真面目な声で、もう一度妹に尋ねる。 「千春、泣いた訳を話しなさい。心配するだろ」 「……穂さんが、早めに誕プレをくれたの。それで」 「それで?」 「きゃー穂さん素敵っっっ!! 大好きっっ!!」  千春は頬を真っ赤に染めてうずくまり、なぜか額を抑えて天を仰ぎ、うわ言のようにあの男の名前を呼ぶ。  穂さん穂さん穂さん、こうなった妹は止められない……俺は妹の恋心が氾濫する玄関から抜け出すことにした。もちろん、くぎを刺すのも忘れない。 「千春、もう少し冷静になれ。あいつは、意味もなく他人に暴力を振るうような奴だ。もし、同じことを千春に」 「穂さんはそういう人じゃない」  うずくまったまま、千春は俺を睨む。目が赤いせいで、強がっているようにも見える。  妹の彼氏、空峰(そらみね)穂は、不良だった。  裕福な家の次男で、家庭にも、学校生活にも問題はなかったのに、ある日突然、豹変したらしい――これは、神奈川県警に勤めていた伯父から聞いた噂でしかないけど。  だけど、何度も補導されるような不良だったことは、間違いない。  そんな人間と付き合うなんて危険すぎる! なにかあってからじゃ遅いんだぞ! 「あいつと付き合って、まだ一か月だろ。なにがわかるんだ」 「兄さんよりはずっと、穂さんのことわかってる」  千春はすっと立ち上がると、俺を追い越してキッチンに向かう。俺は妹の後ろ姿に向かって叫んだ。 「ああいう奴はなぁ、優しいのなんて最初だけだぞ!!」 「うるっさい!!!」 「冬真、あんたさっきから玄関でうるさい!!」  母さんからも怒られてしまったし、俺は妹の説得は諦めて洗面所に向かった。  鏡に映った俺の顔は死んでいる……千春、怒ってたな。少し、言い過ぎた? いや、ダメだ、千春がどれだけ不満でも、俺が、気を付けていなくちゃ。   『冬真(とうま)、千春のこと、ちゃんと見ておくんだよ』 『千春は、大丈夫?』  姉さんから週に何度も、千春の様子を尋ねるメッセージがくる。 結婚して家を出た姉さんから、こんな頻度でメッセが送られてくるのは初めてだ。  姉さんは千春を心配しているし――自分の経験を思い出して、苦しんでいる。千春があいつと別れないかぎり、姉さんの心労も絶えないだろう。  俺が、千春を守らなきゃ。  俺は、『兄さん』なんだから。
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加