1-1 4月6日のお迎えとくしゃみ

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 千春は一軒家に、両親と兄と住んでいる。車庫には車が止まっているから、千春の父親はもう帰宅しているらしい。 「穂さん、今日もありがとうございました」  そう言う千春は、俺の手を離そうとしない。まだ話し足りないみたいだな……もう少しだけ、話してから帰るか。 「俺が家まで送ると、なにか言われたりしないか?」 「私の家族は穂さんアンチですからねぇ」  嫌味でも言われているのか、千春が少しだけ眉を寄せる。  俺と千春の交際は、彼女の家族からよく思われていない――一応、交際は許可して貰っているが、いくつか条件がある。『外泊禁止』とか『門限は9時』とか。  きちんと条件を守ったまま、1年間交際を続けて初めて、『正式に交際を認めてもらえる』ことになっている。  来年の今頃には、千春がこんな顔をしないで済むように、今年の俺は頑張るしかないってわけだ。 「でも、お迎えは止めないでくださいね。私の家族のせいで、お迎えを止めちゃうのは……嫌です」  俺がなにか言う前に、彼女は続ける。 「穂さんが、言ってくれました。『もっと千春のことを知りたい』『一緒にいる時間を増やしたい』って、穂さんから言ってくれたんです」  絡めた指に力を込めて、千春は微笑む。力強い笑みだ。 「ほんの10分ですけど、私にとっては大切な10分ですから」 「俺にとっても大切な10分だ。面倒だなんて思ったことはねぇ」  強く言い切れば、その瞬間、千春の頬が真っ赤になった。うつむき加減で千春はもごもごと言う。 「……うう、100点満点中宇宙です」 「宇宙?」  いくら俺がバカでも、そんな単位はないって……ない、よな? 一瞬宇宙に飛びかけた俺を、千春の声と体温が呼び戻した。 「アンチには負けませんよ――だって私たち、ふたりで『恋』をするんですもんね!」  千春は、すごい人だ。  楽しいことを探すのが好きな人で、揺るがない『自分』を持った人で、俺には釣り合わねぇ人だ。  そんな千春が、こんな空っぽの俺に恋をしてくれたことは不思議で、でも嬉しい、と思う。  だから彼女をちゃんと大切にしたい。  そして、いつか――千春と、心の底から『恋』をしたい。 「穂さんの補導回数が驚異の20回超えでも、昔のあだ名が『ハマの裏番』なんてダサダサでも、私は穂さんが大好きですよ」 「あだ名のことは言うな」  そのあだ名、マジで意味不明。表番は結局誰だったんだよ、俺知らねぇよ。  ため息を吐いて、千春の少し熱を帯びた指先にキスをする。  俺はこういうキャラじゃねぇけど、千春は喜んでくれるはずだ。急に頬を赤く染めた彼女の家を指さす。 「もう家に入れ。腹減ってんだろ? それに、騒ぐと怒られるぞ」 「……あ、ああああの、穂さん」  指先を見つめ、声を震わせながら、千春は断言する。 「穂さんは宇宙です」 「俺は人間だ」 「銀河です」 「人間だって」 「手が洗えなくなっちゃう……」 「ちゃんと洗ってくれ」  気絶しそうに真っ赤な顔の千春が手を振る。彼女に手を振り返してから、俺は歩き出した。  沢塚駅を通り過ぎ、ますます酔っ払いが増えた北口を歩く頃には、だいぶ身体が冷えている。  まだ4月の上旬、この時間帯はかなり涼しい――と、くしゃみが一つ。  きっと、千春が俺の話でもしているのだろう。
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