ある作家の噺

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ある作家の噺

 作家は、いついかなる時でも作家でいなければならない。  それは私の言葉のように染みついた、師と仰いだ男の言葉だ。ここで名前を明かすことはしないが、それでは話が進まぬと、仮にYという名前を付けさせてもらうことにする。  Yはこんな無名に等しき私の本なぞを読んでくれている、物好きな君たちはもちろんのこと、その辺を歩いている人間を捕えて聞いてみても知っているような男だ。精悍で強靭な外身に対し、その実、うら若き乙女の恋する心情を描かせたら右に出る者はおらぬ程、精密で細やかな情を描く男だった。  私はある日、Yに問うた。 「あなたはどうして女の、それも若くか弱い乙女を書くことが出来るのですか。」  Yは袖の捲った綿の白いシャツの、大きくあけた胸元を掻きながら、じっと私を見た。 「では君。君の書いた作品の中には学校の先生や酒処の女将が出てくるが、あれは君が体験してきた事だとでも言うのかね。六十も過ぎた爺になったことも、夫に先立たれた未亡人になったことも、すべて君のことだと。」 「そんなことあるはずない。僕はまだ二十四の男で、老衰で死ぬ予定も、哀しみから身を投げる予定もありません。」  Yはその言葉に腕を組んでうんうん唸る。 「そうだろう、そうだろう。私とて女になったことはない。つまりはそういう事だ。作家は作家という職業でありながら、作家ではないものになる。老いも若きも、男も女も、時には日本を飛び出して世界を回り、そして目に見えないものを見て描き出すのだ。君、だから作家は、いついかなる時でも作家でいなければならないのだ。大抵の者は一本の噺を書くのに、ひたすら机の前に座ってうんうん唸っているだけではないはずだ。煙草を吸い、風呂屋まで歩き、時には飯を食いに立ち寄ったり、療養と嘯いて山に海に足をのばす。そうして見たもの聞いたもの、感じたこと思いついたものを紙の中に落とし込むんじゃなかろうか。だからね、この仕事は日がな一日ぶらついているように見えて、一日も休みがないのさ。それどころか一分一秒とて無駄にしてはいけない。息を吸い、吐くその瞬間も、作家として描くすべてになるのだ。」  Yは去年、肺を患って二十七の若さで死んでしまったが、その生涯のうちには千をゆうに超す作品が残されている。短いの、長いの、それから現実を描いていたかと思えば急な夢物語も語ってみせる。読んでいけば本当にYが書いたのかと疑わしくなるほど、その作品は多種に富み、Yの言葉が雄弁に語りかけてくるのだった。  だから私はあの日から、そしてYの死んだその日から、二度、三度と修正を繰り返してようやく作家と名乗れるようになったのだ。  あのYの言葉を聞く前の私は、作家と言いたいだけの、只の我儘な餓鬼でしかなかった。それが、Yの言葉で作家を志す者に、そしてYの作品に触れ、死を乗り越えて、ようやく作家として立つべき位置についたのである。  そしてこの教えは私だけにあるものではなく、万人のものであるべきとして、この場を借りて記させてもらうことにする。
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