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寝顔
彼女は、眠らない。
いいや、僕が気付ける範囲で彼女が眠っているのを見たことがない。
彼女は僕が寝るときも起きていて、そして僕が起きた時にも僕の顔をじっと見おろしながらにっこりと笑って「おはよう」と声をかけてくるのだ。
「君は眠らないのかい?」
僕はある日彼女に訊いた。
「いいえ、眠るわ。人間ですもの」
彼女は当然と答える。
「でも僕は君の眠ったところを見たことがないんだ。一日中起きていても、一緒に居ても、君は一瞬たりとも目を閉じ続けたりはしなかった」
僕だって彼女の寝顔をこの目で確かめたい。恋人だもの、どんな顔だって余すところなく見たいと思うのは普通の事だろう。しかし彼女はそんな日常すら見せてはくれなかった。
「あら、ごめんなさい。そんな風に思われていたなんて知らなかったわ。でも、私だって睡眠は必要とするのよ。ただ、人よりも寝る回数が少ないというだけで」
そういうと彼女は指を折って数え始めた。
「ひい、ふう、みい……あら。私ったらもう、ひと月も寝ていないのね」
長い睫毛に縁どられた瞳がぱちぱちと瞬かれた。
そんな彼女の驚いた様子に、僕も負けず驚く。
ひと月も寝ていない人間なんて初めて聞いたのだから。
「そんなに寝ていないなんて大丈夫なのかい?」
「平気よ。でもそうね、そろそろ眠った方がいいのかもしれないわ」
最近よく疲れると思ったの。
彼女はそういうとふわぁと大きな欠伸をした。
綺麗な顔がぐしゃりと歪んで、くちゃくちゃのお婆ちゃんのようになる様を僕はこの時初めて目撃する。そんな顔もかわいいと思えた。
「眠るのは嫌い?」
だからそんなにも起きているの?
僕の問いかけに彼女はううん、と首を振った。
細く長い髪がふんわりと宙に舞い、ぱさりと華奢な肩に落ちた。
「眠るのは嫌いじゃないわ。むしろ好きよ。でも眠るのが好きなんじゃないの。落ちる直前の、こう、地面が揺らぐ感じが好きなのよ。万華鏡が回されるように、自分の身体が回転していくの。くるくる、くるくる、って。頭が逆さまになって、足が上に来て、そして自分のいる場所が分からなくなって、上なのか下なのか、右なのか左なのか、私の意識なんてとんと無視されてただ、回される。それは水族館の硝子のように、私を溺れさせて、沈めていくの。深い、深い、眠りの中に。そして子供のように無邪気なそれは私が『ああ、眠ったんだわ』と思った途端に叩き起こすのよ。太陽と時間という最も強い敵を引き連れてね」
くすくすと笑う彼女に、僕は分かるような分からないような、しかしふぅんという相槌だけは忘れずに返してみせた。
「ねえ、一緒に寝ましょうか」
彼女の手が僕の首に回される。
体重のほとんどない、けれど生き物の温かさと重さがすとんと腕の中に納まると、彼女は僕の肩に顔を埋めた。
なんという幸運。
数分と経たないうちに彼女の緩やかな吐息が襟元にかかる。
薄い背を撫でてやれば、言葉にも満たない声が小さく上がり、そして消えて行った。
少しずつ、腕の中が重たくなる。
ああ、けれど残念だ。
せっかく彼女が眠ったのに、念願のその顔を拝むことはついに出来なかった。
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