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第1話 侯爵令嬢の胸の内
「あなたって最近ちっとも構ってくださらないのね」
侯爵令嬢ニーシャはベッドの中で寂しそうに言うと、起こした上半身の胸元にシーツを引き寄せた。
途端、隣で眠っていた人物の素顔が露わになる。
アーガイム・ドロスディア。
ドロスディア王国第2王子だ。
黒髪黒目と目立たない自分と違い、彼の波打つ稲穂のような混じり気のない金髪が頬を垂れると、色気が増す。
少女のような面持ちなのに、意志の強い瞳の色は透けるなアイスブルー。
少年から青年へと変化する男性に特有のちょっとだけ背伸びをしたい年頃の17歳。
世界を支配しすべてを手に入れてしまったかのような傲岸不遜な雰囲気をまとっていて、独特の魅力を醸し出している。
「俺だって忙しい。第2王子だぞ、侯爵令嬢のおまえよりやるべきことが多いんだ。我慢しろ」
「わかっているわよ、アーガイム。愛してる」
ニーシャは世を拗ねたように目を細める彼の仕草を愛おしいと感じてしまうのだった。
ベッドから抜け出した彼女は鏡台の前に立った。
腰まである黒髪は黒曜石のようだといわれる。金色や灰色、青色の瞳がおおいこの国で彼女の黒い瞳は人の心の底を写し取る鏡のように見えるらしい。
これまで親しくしてきた人々の初対面の反応はあまりいいものではなかった。
「私って魔女みたいよね」
「ああ? どこがだよ。東洋の伝説に出てくる天女のようで、とってもいいじゃないか。俺はその――」
お世辞のように聞こえてしまうかもしれないセリフを、アーガイムはちょっとだけ言葉を切って口にした。
「――その外見が、誰よりも好きだ」
「本当に? あなたが敬愛する王太子妃様よりも?」
「義姉様は関係ないだろ。兄上の奥方だ。そんな見方をするのは不敬に当たる」
「それもそうね。私にはその褒め言葉だけで十分……だから、あなたにもっとここに通ってほしい」
この部屋は、ニーシャたちが所属しているフォント王立学院が借り受けたマンションの最高層にある一室だ。
貴族令嬢たちがおおく住む寮となっているが、階ごとに男性専用、女性専用とわかれていて、各階の交流はいつも賑やかだ。
第2王子であるアーガイムは少し離れた高級ホテルギャザリックのスイートルームに住んでいて、ここまではなかなかやってくる機会がない。
王族である彼が、まだ未婚の女性の部屋に立ち入ったと世間に知られたら、大きなスキャンダルに発展してしまう。
そのため、2つの部屋の行き来は密やかに敷いた転移門を通じて行われた。
入室しようと思えばいつでもやってくることができるのに、言葉通り忙しいアーガイムはニーシャと逢瀬をなかなか作ってくれない。
いつも夜遅くまで彼のことを待っている少女にしてみたら、不満が出るのも致し方ないことだった。
「俺が忙しいのは知っているだろう。無理を言うな……大体あっちの部屋には、近衛騎士だって常駐しているんだ。彼らの目を盗んでここにやってくることがどれほど大変か分かっているのか」
「ごめんなさい。無茶を言うつもりはなかったの。寂しくて――」
鏡越しに見る黒い瞳から、1粒の涙が溢れる。
それは頬を伝い、豊かな胸元へと流れ落ちた。
アーガイムは続けてポタポタとこぼれる彼女の涙を見て、罪悪感にかられたのだろう。
ベッドから抜け出すと、後ろから肩越しにニーシャを抱きしめた。
「お前が一番だ。それは間違いない。だから、ニーシャ……」
「分かってる。あなたにはあれが必要だものね」
私より、という言葉を喉元に飲み込んで、ニーシャは鏡台の引き出しを開けた。
中には紫色の小瓶が十数本、丁寧に収められている。
そのうちの1本を手に取ると、ニーシャは蓋を開けアーガイムに手渡した。
「これだよ、これ。俺にはこれがないと……生きてるって実感がわかない」
「あんまり服用しないで。それは一瞬だけの高揚感を与えてくれるけれど、いつもじゃないわ。アーガイム」
「大丈夫だよ、ちゃんと適量は理解してる。俺はそこら辺にいるジャンキーじゃない」
ジャンキー……という言葉の意味が、ニーシャの心に重くのしかかる。
彼が今服用しているのは一見するとポーションに見える。
でも、中身は違法霊薬だ。
飲むと一時的に高揚感を与え魔力を増大させる秘薬。
その代わりに大量に服用したり、継続して使っているとやがて人格破綻をもたらす、とんでもない霊薬。
今は彼の兄が王太子を務めているが、自分と彼の間にもし子供が生まれたら、次期国王に選ばれるのはアーガイムかもしれない。
まだ結婚もしていない、家同士の婚約が生まれた時から結ばれているだけだ。
それでも彼との未来を考えれば、ニーシャの心に王妃になれるという、いくばかの野心が宿らないわけではない。
どちらにしても、違法霊薬を多量に服用する現在の彼には、王位継承なんて偉大なる未来はやってこないように思えた。
「あなたは偉大な人。古代から続く、王家の血を受け継ぐ人。たくさんの責務があっていつも忙しくしていて、私への愛だって欠かしたしたことがない。本当に感謝しているの――王族になれる未来があることも、嬉しい」
自分の野望はひた隠しにして。
感謝の言葉を伝えるとともにうまく彼を誘導したらこれから先どうなるのだろう、とニーシャは考える。
アーガイムは透明なブルーアイに怪しげな光を宿して、ニーシャを見つめる。
そして、遠慮のないキスを押し付けてくる。
唇を割って、無愛想で力強い舌先が、ニーシャを犯していく。
快感と堕落の味がした。
ほんのわずかな愛を感じることしかできなかった。
それもそのはずで、霊薬に魅入られてしまった今のアーガイムは、己の欲望を満たすことにしか興味がないのだから。
「俺もお前に感謝してる。こんないいものを与えてくれて、俺の魔力はいつだって最大限まで溢れ返ってる。兄上を越えて誰よりも王族らしく魔法を使うことができる。父上だって愛してくれるはずだ――。なあ、ニーシャ。お前だってそうだろ?」
「ええ、その通りよアーガイム。いつも私はあなたのことを愛してる」
返事が新たなるベッドインの再開となった。
自分の肉体の上で欲望を満たしていく彼を見て、いつになったら霊薬から抜け出し、言葉通りのたくましい男に成長してくれるのだろうと、ニーシャは静かにため息を吐いた。
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