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第3話 違法霊薬と警告と
あれから2年が経過した。
無垢だった自分たちは随分と汚れてしまったように感じる。
「ニーシャ様。アーガイム様に霊薬をお届けしてきます」
「ありがとう、メアリ。あなたも彼に会ってくるといいわ」
「はい……いいえ、ハリーとは別の日に、なんでもないです」
「彼と仲良くいっているようで何よりよ」
あの夜の大勢いた少年の1人。
メアリが抱かれた相手は、アーガイムの従者で騎士の息子だ。
身分的なものの生まれた境遇が近い二人は、出逢いこそ問題があったが今では仲良い恋人関係を継続している。
身支度を済ませて部屋を出て行くメアリを見送りながら、ニーシャは深くため息をつく。
「なぜ、私たちはこうも上手くいかないのでしょうか、女神メジェトよ」
右手を伸ばして左肩に沿え、愛の女神メジェトへの祈りを捧げる。
メジェト教は国教になっていて、王国の人間のほとんどは信徒だ。
聖典に記されている教えはおおらかで、複数人との結婚、同性愛、離婚まで男女差別なく行うことができる。
でも、貴族の中では古王国時代に祀られていた戦女神ラフィネがいまでも信仰されており、王室も2柱の神をそれぞれ祀っている。
ラフィネ教の教えは厳格で約束事に厳しく、女性は純潔を守ることや離婚の自由が認められていない。
不自由な過去の教えよりも、自由な新しい風を王国の若者たちは好んでいて、あの夜のような痴態がどことなく容認されていたのも、そういう気風があるからだろう。
ラフィネの教えに縛られていたら、自分はあの後で恥辱に耐えられず自殺したに違いない、といまでもニーシャは思っている。
その意味でメジェトの教えには助けられていたし、憎んでもいた。
一夫多妻制を許容しているからだ。
「殿下だってずっと私だけを――」
見てくれているはずなのに。
彼はニーシャ以外に5人の婚約者がいる。
そのほとんどは学院の生徒で、アーガイムは気分によってその夜に訪れる婚約相手を選ぶ。
メアリが向かう先は、婚約者たちの1人の部屋だ。
アーガイムを独占できないなら、いっそのこと彼女たちを皆殺しにしてやりたい。
愛が深ければ憎悪もさらに増す。
怒りの矛先は彼ではなく、ついつい彼が愛しているその他の婚約者たちに向かってしまう。
悪いのは殿下なのに、と昇華しきれない怒りをどこにぶつけようかと悩んでいたら、部屋のベルが鳴った。
メアリ……、と言いかけて気づく。
侍女は先程、お使いに出したばかりだ。戻ってくるには早すぎるから、別の来客なのだろう。
今日のこの時間に来客の予定などなかったはずなのに――、同じ階の令嬢たちの誰かが暇つぶしにやってきたのかもしれない。
「はあい、どなた?」
問いかけるとくぐもった声で返事が返ってくる。
「俺だよ、ニーシャ。バックだ」
「‥‥‥バッカニア!?」
ニーシャは悲鳴をあげそうになった。
ここは彼がやってくるような場所ではないからだ。
慌てて施錠を解き、扉をそっと開ける。
その隙間から、一匹の黒猫がすっと室内に入ってきた。
黒猫は室内を見渡し、ニーシャ以外に誰もいないのを確認してから尾を大きく一振りする。
すると、そこには黒ずくめの男が一人立っていた。
「久しぶりにきたが、相変わらず趣味のいい部屋だ」
「こちらから呼ばない限り、顔を出さない約束よ?」
廊下を見て他に人がいないことに安堵するニーシャは急いで扉を閉じた。
ソファーに深く座ったバッカニアは、どこから取り出したのか煙草に魔法で火をつける。
煙が苦手なニーシャは手を一振りして、魔法でベランダへと続く窓を開けて部屋を換気した。
バッカニアは片目がなく、いつも薄ら笑いを貼り憑かせている男だ。
見た目は30代後半。
髪は短い黒、その瞳も黒とあって自分と同じ容姿なのが、ニーシャは気に入らない。
彼は王都の地下にうごめく闇組織「スカーレットワンズ(緋色の欠片)」の構成員だ。
麻薬や違法霊薬を製造し、魔獣や妖精を捕まえてたり、奴隷売買にも手を染めている。
最近では戦争用魔導具のオークション会場を地下で開催しているとも聞いた。
まっとうな貴族令嬢が関わるような相手ではない。
「俺がつまらない理由で来ると思っていたのか? 集金だ。まだ時期は早いがね、来月末」
「‥‥‥ちゃんと納金するわよ。借りた分は返済する」
「それは当たり前の話だろう、ニーシャ。いいや、トロボルノ侯爵令嬢様。組織は霊薬をまとめて預け、預かった商品を期日内に売り捌き、代金を入金する。まっとうな取引だ」
「なにがまっとうなもんですか! 預ける? いつも捌けるかどうかギリギリの在庫を寄越しておいて、どの口が善人ぶった言葉を生み出すのかしら」
呆れたものね、とニーシャは両手を広げる。
嫌味が効かないのか、無視しているのかバッカニアは美味しそうに煙草を吸い終わると、テーブルの上にあった水の入ったグラスに吸い殻を放り込んだ。
「前回は特別におおくした。お前と殿下の婚約の順位が他の令嬢を差し置いてここ半年ほどずっと上にある。このまま行けば、王族になれるし金も手に入る。今だって裕福だろう? 父親に言えない金額を手にしているはずだ」
「‥‥‥どこからひねり出してきたのかしらね、その金額。売れなくても、あなたたちに返済する額にはなっていてよ。ご心配なく」
「大金貨千枚。ニーシャ、あんたの懐にあることは掴んである。だから貸し出した。それだけだ。入金には人をやる。遅れるなよ? 1日でも遅れたら――わかっているな?」
「あなたのナイフの先が私たちに向く……」
「いい子だ。侍女のメアリがきちんと戻ってくるといいな?」
バッカニアは立ち上がり手を一振りして、さきほどの黒猫に姿を変える。
そのままベランダへと向かおうとして、にやりと口角を上げた。猫の鋭い牙がむきだしになり、あまりの白さが逆に恐怖となってニーシャを襲う。
「なにもしていないよ。まだ、だが支払いが遅れたりしたら保障はない。わかっているだろう」
「‥‥‥分かっているわよ。ちゃんと売りさばいて見せるわ。だからもう帰って――誰かに見られたら厄介よ」
「こちらとしても長居をするつもりはないよ。では」
人間なら落ちたら大けがをする高さを、黒猫はゆうゆうと歩いていき、どこかに消えてしまう。
タイミングよく部屋の玄関の扉を解錠する音がした。
ニーシャは思わずビクッ、と跳ねてしまう。
もしかしたらバッカニアが意地悪く、同じようにやってきたのでは、と思ったからだ
しかし、扉が開いたとき向こうにいたのはメアリだった。
彼女は大急ぎで走ってきたかのように、激しく息を切らしていた。
「早かったのね‥‥…。もっとゆっくりとしてきて良かったのに」
「ニーシャ様、ご無事で! 良かった……あの男が変じた猫がいきなり声をかけてきて――。慌てて戻ってきたのです」
「猫? ああ、バッカニアね。今しがたまでここにいたわ」
テーブルの上を指差す。そこには水の入ったコップに突っ込まれた吸い殻があった。
メアリは主人の落胆した姿に驚いている。
「あの男、よくもこの部屋に――。ニーシャ様に声をおかけできるような身分ではないのを思い知らせなくては!」
メアリは侍女だが、魔法をそれなりに扱える。
単なる黒猫なら焦げ付いた消し炭にできるくらいには、魔法に長けていた。
勇み足になる彼女をニーシャは手で待てと制止する。
いかにメアリが優秀でも、相手は凄腕の暗殺者だ。
返り討ちに遭うのは目に見えていた。
「売りさばけば良いのよ。殿下のお力も借りて……来月は入荷を減らしましょう」
「貯めた売上と仕入れ額が、最近は似通っていたのが気になっていました。あいつら、間違いなくニーシャ様からすべてを奪い取る気です! なんとかしないと」
「アーガイムなら分かってくれるわ。話してみる。だからあなたは大人しくしていなさい」
「‥‥‥かしこまりました」
侍女は不満を強く顔に浮かべながらも、渋々とうなずいた。
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