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迎え
春樹とはそれっきりだった。
志延は春樹の言葉にショックを受け、その日は何もする気が起きず、ただ茫然と部屋に座っていた。食欲もなかった。
翌朝になってやっと気を取り直して、自分の私物をまとめだした。
昼前、インターホンが鳴った。訝しく思いながら、ドアののぞき穴から外を見た志延は息を呑む。
ドアを開けると、単衣の着物姿の母が立っていた。
「さあ、帰りましょう」
母はただそう言った。
「お母さん、ど、どうしてここを?」
「畠山さんに頼んで、知り合いの調査事務所に調べてもらっていたの」
畠山とは、山城家の顧問弁護士だった。
「さあ、もう気が済んだでしょ。帰りましょう」
母は怒りもせず、そう言った。
荷物をまとめた志延は母と実家に戻った。新幹線の車中でも、駅から自宅へのタクシーの中でも、母は志延を責めたり、叱ったりすることはなかった。
しかし、久しぶりの我が家に着くと、大騒ぎになっていた。
「奥様! お嬢様!」
山城家で長く女中頭を勤めるカネさんが慌てて出てきた。
「延幸坊ちゃまが!」
カネさんの言葉に母は真っ青になって兄の元へ急ぎ、志延もあとを追った。
既に医師が呼ばれていて、部屋に入ると診察が終わろうとしていた。
「先生!」
母が容態を尋ねる。
「心臓が弱ってきているようです。こればかりはもう……」
医師が残念そうに告げた。
「そんな! なんとか、なんとか助けてやってください」
母の悲痛な叫びにも、医師はなすすべなく首を横に振るだけだった。
家に帰った途端の兄の急変で、三ヶ月余りの志延の家出は有耶無耶のまま終わった。
親戚筋には、「広い世界を見てみたい」と言うので旅に出したと話していたようで、親戚と顔を合わせれば、
「志延ちゃん、楽しかったかい?」
「こんなこと許してくれるお母さんに感謝だよ」
なんて言われて苦笑いするしかなかった。
志延は夏の間は延幸の看病を手伝い、九月からは叔父の会社に入って事務を手伝うことになった。
兄の容態も心配だったし、何より春樹に言われたことのショックで、再度上京を考える心の余裕はなかった。
──お前と寝てると布団のまわりを何かが周ってるんだよ。何か重たいものがずりずり周ってるんだ。
──お前を抱いても、石を抱いてるみたいで冷たくて……。
言葉がガラス片になって胸に刺さるようだ。しばらくは恋はいいと思った。
それにしても、布団のまわりを周る何かとは何だろう?
ふとエンメさんを思い浮かべ、まさかと否定した。
叔父の会社に入社してしばらく経った頃、山城家の顧問弁護士でもある畠山が仕事で叔父のもとを訪れた。
「やあ、志延ちゃん。働き始めたんだね」
畠山は亡き父の幼馴染でもり、志延のことを子供の頃から可愛がってくれていた。
「ふふ。畠山のおじ様のお陰で、家出失敗したから」
自嘲気味に笑うと、畠山はおや?という顔をした。
「私が東京に家出した時、探してくださったんでしょう?」
「なんだ、そういうことか。急に旅に出たなんて不思議だったんだが、遅くきた反抗期だね」と畠山は笑って続けた。
「でも、志延ちゃんを探すのを手伝ったのは私じゃないよ」
そう言って、畠山は社長室に入って行った。
(えっ? ではお母さんはなんで私の居場所がわかったのかしら?)
志延は訝しむ。
母は畠山に頼んだと言っていたのに、どうやって志延の居場所を突き止めたのか……。謎が残った。
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