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ビアージョと記憶喪失
ひょっとしたら、異変は知らないところでとっくに始まっていたのかもしれない。
僕達の身にそれが降りかかってきたのは、五月も終わりにさしかかった暑い日のことだった。
「ああああああああづううううううういいいいいいいいいいいいい……」
僕は制服の上着を椅子にかけると、教室の机につっぷして悲鳴を上げていた。前の席から、親友の坂東が呆れたように僕を見つめている。
「牛島やめや。そんな暑い暑い言われたらもっと暑くなるだけだっつの」
「わかってる。しかし僕は暑い、暑くてたまらんのだあああ……」
「まあ、うちのガッコボロいもんな。エアコンとかついてないもんな」
うらめしそうに、坂東は天井を見た。
戦後すぐにてきたといううちの高校は、伝統校であり進学校でもある。僕もものすごおおおおおおく頑張って勉強して、ギリギリ合格した学校だった。令和日本でも数少ない男子校であり、県内トップ校として知られてもいる。東大合格率もまあまあ高い。だから、毎年選りすぐりの男子たちがこの学校の門をたたくのだが――。
致命的な問題が一つ。
校舎がボロくて、エアコンがないということだ。
「確かに公立だから、予算はないんだろうけどさあ」
僕は机の上でごろごろと額を転がしながら言う。そのたびに、机が汗まみれになっていく。
「でも今時、ガッコにエアコンの一つもないとかありえなくね?職員室だけエアコンついてるのズルくね?」
「そもそも、耐震構造が終わってるって話だしな。次に大地震が来たら確実に潰れるから、そうなったら建て替え工事してもらえると思うぞ。多分エアコンもつけてもらえる、良かったな牛島」
「今の話のどのへんに良かったな要素があるの?ねえ?」
坂東は時々、冗談なのか本気なのかもわからないことを言う。
まあ実際、この学校にエアコンがないのは、そもそも壁や天井の強度がヤバすぎてエアコンが設置できないからだと聞いたような。予算以前の問題である。ここまでくるともう、建て替え工事をしないとマズイレベルだろう。
かろうじて木造校舎ではないが、平成元年とかに適当すぎる建て替え工事をして以来、そのまんまになっているというのだから恐ろしい。平成元年=1989年である。で、今年は2024年である。何年過ぎているのか想像するだけ震えがくるではないか。
「地震とか、大災害とか、そういうのは一切期待してないの!」
僕は机の下で足ヲバタつかせながら訴えた。
「僕が欲しいのはね、本当にささやかな願いなわけです。とりあえず涼しくてほどほどの湿度で眠るのに快適な教室が欲しいです」
「寝る気満々だなオイ」
「そりゃそうだろうよ坂東。次の授業は子守歌でお馴染みの、数学のKティーだ」
Kティーとは、北川先生の略称である。真っ白なお髭が特徴的な、年配の先生だ。
いつも教科書をのんびり読んでいくだけの授業なので、はっきり言って眠くて仕方ないのだ。そのくせ、血も涙もないテストを作ってくることで有名――さすがに、百点満点のテストでクラス平均が三十九点のテストを作ってくるのはどうかと思う。
眠い、けど暑い、眠い。
ここ最近は彼の授業のたび、そんな恨み事を繰り返している状態だ。
「まあ、眠いのは同意。……あ」
愚痴を言い合う休み時間。不意にバイブ音がして、坂東が立ち上がった。長身の彼が立つと、一気に僕の上には大きな影ができる。
「ごめん、電話。姉貴からだわ。ちょっと話してくる」
「おう、いてらー」
彼はそのまま左耳にスマホを押し当てて教室から出て行ってしまった。
そして。
それが、僕が見た――“いつもの彼”の最後の姿だったのだ。
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