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「みんな、きりーつ。授業を始めるぞお」
「きりーつ、れー」
チャイムが鳴り、北川先生が教室にやってきてしまった。僕は焦る。目の前の座席がからっぽなまま。電話をかけにいった坂東が、そのまま戻ってきていないのだ。
「んん?……坂東くんは、どこだね?」
北川先生もそれに気づいたのだろう。老眼鏡を押し上げながら、僕の前の席と出席簿を見比べている。
「あの」
これは言った方がいいかもしれない。僕はそっと手を挙げた。
「坂東くんなんですけど、何かトラブルがあったかもしれません」
「トラブル?」
「はい。休み時間に、お姉さんから電話がかかってきたみたいなんです。そしたら、そのまま戻ってこなくて。家で何かあったのかも」
「ええ?」
教室がざわついた。平凡で地味な僕とは違い、坂東は男子にも女子のも人気なタイプだ。バスケットボールのセンターをやっているだけあってマッチョで高身長、顔も少し昭和風のイケメン。それでいて気取らないし、みんなの兄貴分といった雰囲気で世話を焼いてくるタイプ。少し暑苦しいと思う人間もいるだろうが、少なくとも僕は彼が誰かに悪口を言われているところは一度も見たことがなかったりする。
そして、ムカつくことに成績もいいし、授業態度も真面目なのだ。
ましてや文系の僕と違ってバリバリの理系で、数学は得意だったはず。いくら眠たい北川先生の授業とはいえ、サボる理由があるとは到底思えないのだが。
「坂東のやつ、そんな複雑な家庭とかだっけ?」
「ううん、そんなことないと思うけど」
「お姉さんって確か、新聞記者やってる美人なお姉さんだよな?前に学校の行事取材してくれた時に見たけど」
「何かあったのかな、心配だね……」
「あいつのことだから、ちょっとやちょっとのトラブルでヘコたれたりはしないと思うけど」
ざわざわ。あっちこっちから、坂東を心配する声がちらほらと。僕も段々不安になってきた。廊下を出ていったところまで見かけたが、そこから先彼がどこに行ったのかは知らないのだ。
校舎の外に出たのだろうか。それとも校舎内のとこかにいるのだろうか。靴箱を見ればそれくらいのことはわかるだろうが――。
「あああ、あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
天をつんざくような悲鳴が聞こえてきたのは、その時だった。僕は反射的に立ち上がっていた。坂東の声だ、とすぐに分かったからだ。
「ば、坂東!?」
「お、おい待て、牛島!」
先生の制止をよそに、教室から飛び出す僕。
「あああああ、ああああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
悲鳴は断続的に響いてくる。靴箱からだ、と僕は階段を駆け下りた。そして。
「ああ、ああああああああああああっ」
「坂東、どうした!?」
すぐに発見した。靴箱の前で、大柄な体を縮めるようにして頭を抱え、蹲っている少年が一人。その顔色は真っ青で、恐怖に引きつっている。
「坂東、坂東!」
「あ、あああ、あ?ば、ばん、どう?」
そして、彼は。
「そ、それが、俺の名前、か?」
信じられないことを言った。僕は絶句する。きょろきょろと周囲を見回すその瞳は濁り、僕を見ているようで見ていない。
それもそのはずだった。何故なら、彼は。
「ど、どうしよう。な、なにも、思い出せない。お前、誰だ?お、お、俺を、知ってるのか……?」
「え……?」
彼は、記憶喪失になっていた。
この日を皮切りに、日本のあちこちで奇妙な現象が起きるようになる。
普通に生活を送っていた人たちが突然記憶喪失になるという、謎の奇病が。
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