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いい匂い。
商品を並べながら思った。
もちろん、ウチの自慢の果物もそう。とくに今くらいの初夏だと桃が張り切っている。
でも他にも、パンが焼ける小麦の香り、早朝に降った雨の香り、開きかけの蕾からもれ出る花の香り。
王都から馬車で三十分の朝市は、今日もさまざまな香りが海のように漂っている。
匂いが服に移らないかって?そんなの心配あるもんか。ここは下町だもの。上流階級の貴族様が来るようなところじゃない。安いペラペラの服を着た下町庶民がお喋りしながら物を買うところさ。たまに旅の人も来るけどね。そういう人らはすぐ見分けがつく。香りに溺れながら歩いているからね。
それとは対極に地元の住民は人混みをスイスイ縫うように移動する。香りの中を泳ぐように、慣れた足取りで。遠目でもなんとなく分かるんだ。こいつが地元の人間か旅の人か。だからそう、こんなふうに石畳をステップするように歩いてくる奴は地元の人間だね。
「おばさん、リンゴを一つ」
「はいよ」
言いながら顔を見て、アタシは心底驚いた。
「アサギちゃん?」
「はは、久しぶり、おばさん。元気だった?」
そう言って笑うアサギちゃん。笑い方が変わってない。髪も顔も服も。でもなにか雰囲気が変わった。いや、成長したのかね。
「なんだいなんだい、久しぶりだねぇ。ここ最近ずっと来てなかっただろう、心配してたんだよ。どこ行ってたんだい」
「ずっと家にいたんだ。っていうか研究所。ジェリーの研究が今いいとこいっててさ。ラボにこもってた。俺は家のことやって、ジェリーは買い出しとかしてもらってたから、市場にも全然顔を出せてなかった。ごめん」
「あぁそうだったのかい。大変だったね。じゃあ今日ここに来たってことは、一段落ついたのかい」
「ああ、もう当分大丈夫」
「そうかい。はいリンゴ」
「ありがとう」
アサギちゃんが硬貨を二枚つまみ、リンゴと引き換えにアタシの手のひらに置いた。
「そうだアサギちゃん、なんか半年くらい時間あいちゃったけど、雰囲気変わった?ひょっとして背が伸びたんじゃないか」
「そうかも。でも半年会ってなかったら雰囲気も忘れるよな。俺の方はあんまり変わりないよ」
「そうかい。ま、良い男ってことには変わりないけどね。………アサギちゃん、そんな馬車乗りとか鉱夫みたいな、いかにも下町って格好じゃなくてさ。もっと良い服着たらモテるよアンタ」
アサギちゃんは大抵この格好だ。白シャツに、モスグリーンのサスペンダーズボン。シンプルっていうかなんていうかね。あんまり服に頓着するタイプじゃないのは、話しててもわかるんだがねぇ。そこについてる顔がまぁ良い男だから、勿体無いって思っちまう。ただアサギちゃんの顔も肉体も、どっちかっていうと“健康美“とか“精悍“って感じの男らしい容貌だから、こんな服が一番似合うのかもね。
風に揺れるしなやかで少しクセの入った長い黒髪も、背中で無造作に一つ結び。でもまぁ、そこもアサギちゃんらしいと言うか。
「ていうかおばさん、その『アサギちゃん』ってのやめてよ。ジェリーのことはジェリーって呼ぶのに」
「あはは、いいだろう。可愛いんだから」
ちょっと恥ずかしそうに笑うアサギちゃん。実際こういうところが可愛いんだけどねぇ。鋭い両の目が、笑うと人懐こく細められるんだよ。
「でも俺もう21になるし。可愛いなんて似合わないよ」
「おや、もうそんなになるのかい。あんた、この街に来て何年だった?」
「9年かな。12の時に来たし」
「はぁ、時間は流れるのが速いね。ジェリーの方は?」
「あいつも21。同い年だよ」
「そうかい。おや、そういえばジェリーは一緒じゃないのかい?今日はアサギちゃんだけ?」
「あれ、呼んだ?」
「ジェリー」
「おや、ジェリー」
噂をすればなんとやらだね。おおかた、花屋の娘にでも捕まっていたんだろう。あそこの娘も面食いだからね。3年前まではアサギちゃん一筋だったのに、最近ではジェリーにお熱だ。つくづくモテる子たちだよ。
「おはよう、おばさん。桃がいい香りだね」
「おはようジェリー。そうだろ、今が旬だよ。………ところで今アサギちゃんとも話してたんだが、最近アサギちゃんが市場に来なかったろ。研究が順調なんだってね」
「そうなんだ。しばらくラボに詰めてて。アサギには悪いことしたなぁ」
そう言って微笑みを浮かべるジェリーは、特に変わったところもない。まぁこっちは当たり前だね。ほぼ朝市には毎日来ていたし。変わらずいい男だ。ジェリーはジェリーで、アサギちゃんとはまた違った魅力がある。というか、ほぼ正反対なんじゃないか。アサギちゃんのガッシリした長身やコシのある長髪とは対照的に、ジェリーは王都の画家が描きそうな宗教画の天使みたいな顔をしてる。造形美って言うんだろうね。繊細な顔立ちだ。笑うと大きな目が穏やかに垂れる。右目の泣きぼくろや色素の薄いサラサラの絹みたいな髪も言葉遣いも、とにかく柔和な印象で。いつも研究室から白衣を着たままやってくるから、まぁ目立つんだよ。
アサギちゃんといいジェリーといい、やっぱりこうも見た目がいいもんだから、なんで研究職なんかやってるかなって思っちまう。
しかしジェリーはその道の天才らしいし、正解ではあるんだろうけどね。
「まぁ、二人とも元気そうで良かったよ。とくにジェリー。あんた体調崩しやすいんだから無理はするんじゃないよ。体壊したら元も子もないんだからね。そのためにはウチの栄養たっぷりなリンゴを………あれ、アサギちゃん」
「ん?」
「リンゴ、一つしか買ってないけど、ジェリーの分はいいのかい」
言った瞬間、失言したと思った。
なんでかは分からない。でも、一瞬そういう空気になった。
二人が顔を見合わせたような気がした。でもそれは気のせいで二人はアタシのこと見てるし。
空気が重い。何かを逡巡しているような瞳の揺れ方をしているようにも見える。
だけどそう感じるのもアタシの気のせいかもしれない。でも普通の会話をしていたのに突然こういう空気になることは、実は今まで何度かあった。その度に、なにが二人の琴線にふれたのかは分からない。聞いてもいけない気がする。もし聞いたとしてもきっとはぐらかされる。そんな予感があった。
ずっと感じてたことがある。アサギちゃんとジェリー、この二人はなにか大きな隠し事をしているんじゃないかって。証拠は何一つ無いんだけどね。でもなんというか、醸し出す空気というかね。特別なんだよこの二人は。
「………おばさん」
「あ、あぁ」
「リンゴ、そうだね。………実は朝ここに来る前、僕アサギに『今日は食欲ない』って言ったんだ。だからアサギが遠慮したんだと思う。でもそういう時こそちゃんと食べないとダメだよね」
「ああ、そうだね………」
「リンゴ、もう一つくれる?」
「……それは、もちろん。……あの、でもジェリー」
「なに?」
「別に無理して買わなくてもいいんだよ。ふと思ったから言ってみただけだからね」
「はは、別に無理してなんか。本当に栄養取らなきゃって思っただけ」
「……そう、かい。ならいいんだけどね。はいリンゴ」
「ありがとう」
ジェリーが笑顔で受け取った。もうさっきの空気は霧散している。
アタシは硬貨を二枚受け取って、小さな金庫に入れた。
「そういえばおばさん、俺がいなかった間になにか変わったこととかなかった?相変わらず?」
アサギちゃんが話題を変えた。アタシはそのことに少し救われたような気分になりながら、ううんと唸って最近のトップニュースをヒソヒソと告げた。
「…………あんまり、大きな声じゃ言えないがね……。
……やっぱり、王都がなにか企んでるんじゃないかと思うよ。
物価が高いんだ、前より明らかに。戦争の予兆だよ。ほら、うちの国は隣国とずっと冷戦をしてただろ?それがついに終わって、とうとう戦争が始まるんじゃないかって街の奴らはみんな言ってる。前は王都にしかいなかった兵隊さんも、最近ではこんな下町をウロウロしてるしねぇ。戦争は嫌だよ。どうせ王都だけじゃ収まらない。戦火はここまで来るだろうし、そうなりゃウチの畑も店も家も何もかもみーんなお終いだ。……そんなの勘弁だよ」
「そっか………そうだよなぁ、そうなりゃ俺たちも他人事じゃないな」
「そうさね。あんた達もあんな辺鄙なところに住んでるとはいえ、戦争になったらきっとあそこまで焼野原さ………あ、そうだジェリー」
「なに?」
「あんた、天才科学者様だろう。どうだい、戦争を止めるいい案はないのかい?」
ジェリーが目を見開いた。この子、ほんとこの話題苦手だね。言われるとすぐ目を逸らす。
ジェリーを知っている奴なら一度は使ったことがある言葉――「天才科学者」って称号。これを言われるのが、ジェリーはもしかしたら嫌なのかもしれない、と度々思う。こんな誉高い称号なのに、忌避してるように見えてならないんだ。ジェリーだって12ぐらいの時まではその称号を誇らしそうにしていたのに。幼いころからから天才天才って言われすぎて疲れちまったのかね。
アタシがそんなことを考えていると、ジェリーが気まずそうに口を開いた。
「いやいやおばさん、僕は政治の事はさっぱりだし……科学者って言っても、みんなの役に立つようなロボット作ってるだけだよ。僕の出来ることなんて微々たるものさ」
「えぇ?何言ってんだいアンタ、まぁた謙遜して~……アサギちゃん、あんたからも何とか言ってやんな。体を切らずに病気を発見できるロボットを作ったのはどこの誰かって」
「そうだぞジェリー。王都から呼び出しくらうレベルの大発明だったろ。どんだけの奴があれで助かったと思ってる。もっと自信持て」
「他にも~何だったかね、天気を予報するロボットに、機織りするロボットに、豊作か凶作かを予測するロボットに……」
「もう数え切れねぇな。勲章いくつもらってんだっけ?」
「数えてないよ」
「ほら見なさい。やっぱりジェリーはすごいんだから。政治のことだってちょっと勉強すりゃ戦略立てられるようになるわよ。……あ、そしたら全自動で戦争に勝てる戦略を立ててくれるロボットとか作れるんじゃないの?そうなったらあんたこの国の英雄だよ!」
アタシが名案とばかりに言ったら、ジェリーは困ったように苦笑した。
「やめてよおばさん。僕目立つの苦手なんだ。アサギと静かに暮らしたいんだよ。片手間にちょっと発明してさ。だから政府とはそんなに関わりたくない」
「なんでさ」
「あー、そうだね、もちろん、目立っちゃうってのもあるし…………それに、ほら、あの人達ちょっと強欲なところがあるからさ。発明したもの片っ端から持ってっちゃうんだよ。もちろん、政府から研究資金をもらってるから当たり前なんだけどさ。自分用に発明したものも問答無用で回収されちゃうから、これ以上関わったら僕の周りからなんにも無くなっちゃうよ」
肩をすくめて笑うジェリー。冗談めかして言ってるけど、わりと本気で嫌がってるんじゃないか。眉に寄るシワが、アタシにそう思わせた。ただ、この子は昔から本音を隠すのが上手いからね。どうだろう。
考えてみれば確かにここまでの実績と才能があるなら、ジェリーはもう政府と手を切って独立してもいい気がする。今さら研究資金なんかなくたって、特許があるからお金には困らないだろ。でも一度政府と関わっちまうと、離れるのは難しいのかねぇ。
「……まぁそういうわけでさ。隣国からの指名手配も御免だし、王都に監禁されるのも御免だし、僕は戦争には関わらないよ。ごめんね」
「ふぅん……そうかい、まぁそういう事なら仕方ないね」
「そうそう。それに僕くらいの科学者、王都に行けばごまんといるよ。天才なんかじゃない」
「いや、それは違うだろジェリー。その辺の科学者は数え切れないほど勲章もらったり出来ない。もっと自信持てよ」
「そうだよジェリー。あんたは本当にすごいんだからさ。街の奴らだって頼りにしてる。あんまり過ぎた謙遜するんじゃないよ。どーんと胸張ってさ。そうじゃないと、ずっとあんたの研究の助手してるアサギちゃんの立場がないだろ」
「ああ、そうだね……うん、アサギにはいつも感謝してるよ。僕アサギがいないと駄目だから。いなかったらなんて考えられないよ」
「はぁ~、そこまで言ってもらえるなんてアサギちゃんも冥利に尽きるね」
「そうだなぁ。でも俺だってジェリー居てこそだし」
こういうセリフを二人は恥ずかしがらずに言う。たしか12の頃から二人暮らしらしいし、素直に気持ちを言葉にするのは仲良しの秘訣かね。
「じゃあおばさん、リンゴありがとう。そろそろ帰るね。また明日」
「おばさんまた明日」
「ああ。いつもありがとうねぇ」
何かを楽しそうに話しながら去っていく二つの背中を見て、やっぱりああして二人で並んでいるのが似合うとしみじみ思う。
天才科学者とその助手、たぶんそれだけの関係じゃないと思うけど、いいコンビだよ。
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