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やめてくれ。朝からそんな話は。
せいぜい五年くらいだろう。
喉の奥から出てきそうな憤りをすっかり包み隠して脇にやる。
「いいだろ、何年だって。」
「春海ちゃんさ、」
いつの間にか冬火は顔を上げ、こちらを覗き込んでいた。
「夏生ちゃんに服貸してあげたら?」
「……は? 服?」
「そ。夏生ちゃんさ、次の火曜日に友達と藤の花見に出かけるんだって。服がないって言って困ってたから、貸してあげたら?」
友達? 服? 遊びに?
今の冬火の言葉は何一つ、兄の姿に重ならなかった。
長く引きこもりだった兄に、遊びに行くような友だちがいるなんて聞いたことはなかった。
ましてや兄の話を妹がするなんてこと、今まで。
どうして?
冬火に問いただそうか躊躇している間にバスは来た。通勤時間帯の路線バスはひどい混雑で、たちまち冬火とはぐれる。
『立ち止まらず〜車両中程までお詰めください〜』
いつも通り。
冬火の一言以外、何もかもいつも通り。
なのに、春海は生まれてはじめて、持っている吊り革がまるでどこにも固定されていないように不確かで、頼りのないものに感じた。
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