3 わるもの

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 友人が眼の前で列車に轢かれたショック、とのことだった。  母や教員の励ましも虚しく、結局高校は中退し、夏生はひたすら部屋の中に閉じ籠もるようになり、自傷癖まで発症した。 ――あの飛び込み自殺さ、◯◯高の生徒らしいよ。塾の友達の先輩だって。 ――なぁ、お前の兄ちゃん、現場見たんだって? ――引きこもるぐらいグロかった?  周囲の夏生への視線は、羨望から好奇にすりかわる。  心ない好奇心。怒りと反感。戸惑い。それらをなんとかしなければならないという焦りがぐちゃぐちゃになって、少しずつ春海の胸の中に糊着し、沈殿していった。 ――どうして。  兄の部屋の戸を開けられないまま、春海はその向こうにいるはずの夏生の姿を想像した。  ベッドの上で、病人のように横たわる兄。  白い腕に、無数の赤い傷。  かつて完璧だった兄の姿はもはやどこにもない。  学校で、地域で、家の中で小さくなっていく兄の存在が、春海を卑屈にしていくのを感じた。  失望。  その感覚は、春海が大学を上がる頃にはすっかり、夏生に対する冷えた軽蔑になっていた。  兄のせいで。  兄がもっとしっかりしていれば。  春海は漠然としていた進路を、はっきりと役所志望に据えた。そのほうが家族のためになると思ったからだ。  それまで家族のために何かするのは夏生の役割だった。  それをそっくりそのまま引き受けた。  やりたいことがあったわけじゃない。  ただ、やりたいことを選ぶことをやめた。  その時立ち止まって考えることも、自分のために時間をさくこともなく、ただひたすら今ではない将来のために準備を進めた。  夏生と会話することをやめたのはその頃だった。  家ですれ違っても、同じ食卓についても、〈おはよう〉や〈おかえり〉すらも、一切の会話をやめた。  最初のうちは夏生が気にして何度か春海に話しかけてきた。だが春海が徹底的に無視し続けていると、やがて夏生から話しかけることもなくなった。  そうして兄弟の会話は消滅した。  かつて双子だと、己の片割れだとすら思った兄と春海をつなぐ糸は切れた。  二度と繋ぎ直すこともないだろう。  そう思っていた。
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