303人が本棚に入れています
本棚に追加
鉄面皮の騎士
ドアノブに手を掛けたアネスは、返事を待つこともなく外へと飛び出した。その先には、鋭い爪でさらに御者に襲いかかろうとするバアロフ――熊によく似た中型の魔獣――がいる。馬車を引いていた馬は最初の襲撃で縄が外れて逃げてしまったのだろう。バアロフは残った御者にだけ狙いを定めているようだ。
薄闇の中に、魔物特有の赤い瞳が光る。
「魔物だ!」
身の丈三メートル近くはあるだろう巨体から、鋭いかぎ爪が震える御者に振り下ろされようとしている。考えるよりも先にアネスの身体は彼を守るために動き、鞘から振り抜いた抜き身の剣でその攻撃を振り払った。
「心配するなミラ、これくらいなら俺が」
ミラを心配させまいとアネスが叫んだ瞬間、彼の視界を何かが通り過ぎる。あまりに素早いそれは、別の魔物が現われたのかと思う程だったが、違う。
「ミラッ!?」
男装をしたミラの小柄な身体はまるで空を駆けるように高く飛び上がった。目を見開くアネスを気にした様子もなく、ミラは携えた短剣でバアロフの喉笛を掻き切った。
魔獣の巨体がぐらりと傾き、らんらんと輝いていた赤い瞳から光が消える。
危うげなく着地したミラに、アネスが駆け寄った。短剣一つで、あのバアロフを一瞬で仕留めるなんて、魔獣狩りに慣れた騎士か熟練の冒険者でもなければ難しい。
実際アネスも一人でバアロフと応戦したことはなかった。
魔物の血で汚れた短剣をヒュッと払い、ミラはアネスに向き直る。
「やったわね! 今晩はバアロフのお肉が食べられるわ!」
実に嬉しそうにはしゃぐミラに、アネスは一気に身体の力が抜けた。
「さあさあ、血抜きして持って帰りましょ! 魔獣の中でもバアロフは食べられる場所が多いから好きなの。臭みが強いけど、ハーブと塩を揉み込むと気にならなくなるし……仕留めたてなら薄切りにして焼くと美味しいのよ! アネスにはお世話になったから、一番いい部位をあげるわね」
さっきまで魔獣に襲われ駆けた御者はまだ腰を抜かしたままだというのに、ミラは鼻歌を歌いながら毛皮を剥がし解体していく。魔獣は毛皮も固く、女性が短剣ひとつで解体できるものではないのだが。
「流石、アンダルフォン家のご令嬢だ」
父親であるアンダルフォン子爵が王都にいた頃、その剣の腕を知らない者はいなかったという。どれほどのものかと思っていたアネスだったが、その娘であるミラのあの動きはきっと父親譲りなのだろう。
かぶりを振って、アネスは剣を抜く。その口角は無意識に上がっていた。
「俺も手伝おう」
「助かるわ。固くなる前にじゃんじゃん切り分けちゃいましょ」
屈託なく笑うミラと魔獣だった肉。貴族令嬢とは思えない組み合わせだったが、それがなぜかミラには妙に似合っていた。
森が夕焼けに赤く染まり、そして薄闇に包まれる。ガラガラと馬車の車輪の音が響く中、二人はようやくアンダルフォン家に到着したのだった。
◆ ◆ ◆
庭にジュワッと肉を炙る軽快な音が響く。
いや、庭と言っていいのか畑と言った方がいいのか。とにかくアンダルフォン家の敷地では、遠路はるばるミラを送ってくれたアネスの歓迎会が開かれていた。
メインディッシュはもちろん、ミラとアネスが解体したバアロフの肉だ。薪によって温められた鉄板の上で、脂をとかして食欲をくすぐる匂いが漂う。
「バアロフは最近出にくいからねぇ~。アネスくんはツイてるよ~」
ミラと同じ銀色の髪の毛をしたアンダルフォン子爵も、平民と変わらない簡素な格好で肉に舌鼓を売っている。おっとりとした美しい顔立ちの彼を見て、昔の武勇伝を連想できる人は少ないだろう。
「そうなのよね。ミンツやグロバアなんかばっかり出てきても、お腹は膨れないし。バアロフは狩りやすくて美味しいから、いつ出てきて貰ってもいいのにな」
焼けた肉を素早く口の中に放り込むミラは、そんな軽口を叩く。
バアロフが王都に出てきたら、きっと街中大騒ぎの大捕物になるだろうに。この家では豚か猪が出てきたような扱いだ。アネスは規格外の会話に苦笑するしかなかった。
「だけどお肉ばっかりあってもお金にはならないんだけどね」
そうぽつりと呟くミラの表情に影が落ちる。
母が亡くなってから辺境の地で親子二人、支え合いながら生きてきた。少ないながらも領民と手を取り合い、大変ながらも楽しい日々を過ごしてきた。食べるもの苦労する日もあったが大好きな父親と一緒なのだから、ミラはそれを嫌だとは思わなかった。
「ジョスバッカーはこんな生活が嫌だったのかも」
魔物は金にならない。
肉としては可食部分が少ない。その上鮮度が落ちやすく流通が難しく、保存するとなると手間がかかる。食用に育てられる豚や牛の方が遙かに安く手に入るのだから売れるわけがない。
そして魔獣の毛皮は硬く使える用途が見当たらないため、捨てるしかないのだ。
領地の殆どが魔獣の森であるアンダルフォン子爵領は、領主とその娘が魔獣から領民を守っているものの、豊かさとは縁遠いものだった。
ミラの重い呟きに、父親はその薄い肩をそっと抱き寄せた。
「ごめんミラ。君には苦労ばっかりさせちゃってるねぇ」
ジョスバッカーとの破局は、帰宅早々ミラが父親に伝えていた。そのあっけらかんとした様子に、アネスはミラがさほど傷ついていなくて良かったと思ったがそうではない事を改めて知る。
父親に抱きしめられるミラを見つめながら、アネスは無意識に拳を強く握っていた。
「俺ならミラを――」
ふいにアネスの口から言葉が溢れる。ハッとしたのはアネス自身だ。
幸か不幸か、それはミラたちの耳には入っていない。
「ごめんねアネス。変な話しちゃった。さあ、焼いていくわよ! 明日の分まで食べなくちゃね」
ミラは腕まくりをして肉を焼いていく。それが強がりだとアネスはもう知っているものの、その笑顔を曇らせたくない。アネスはなぜ自分がそう思うのか気付かないまま、ただミラの隣で差し出された肉を受け取るのだった。
鉄面皮の騎士という異名を取った姿は、そこにはない。
◆ ◆ ◆
翌朝。ミラの庭ではキン、ガキィンと鋭い金属のぶつかり合いが響いた。
「アネスくん、筋がいいねぇ」
おっとりとした父親が、練習用の刃を潰した剣を軽々と振る。それを受けるのは、ミラを自宅まで送り届けてくれたアネスだ。
「ありがとう、っ、ございま、す!」
軽そうに見える父親の剣が重いことを、ミラはよく知っていた。他の誰でもない父親に、ミラは剣を教わったからだ。魔獣の多いこの森では、生きるために強くある必要があった。自分を、そして領民を守るためにもミラは貴族令嬢らしからぬ技量を身につけていた。
「お父様、そろそろ朝ご飯にしない? 今朝はバアロフのサンドイッチよ」
「いいねぇ。よし、じゃあ一旦おしまい~。アネスくんも朝ご飯を食べよう」
全く疲れを見せない父親とは真逆に、アネスは膝に手をつき肩で息をしていた。それも仕方がない、ミラが知っているだけでももう一時間以上、剣を交えていたはずだ。
その間ミラは、昨晩から仕込んでいたパン生地を成形して焼き、残っていたバアロフの肉を挟んだサンドイッチを作っていた。
アンダルフォン子爵家では贅沢な部類に入る朝食に、ミラはがぶりとかじりついた。香味野菜と一緒に炒めていたバアロフの肉は、ほんの少し野性味が強い。だが庭で採れたトマトの瑞々しい味わいと混ざって、口の中いっぱいに旨味だけが広がっていく。
「アネスはやっぱり騎士よね。私より体力があってうらやましい」
まさか貴族令嬢に体力をうらやましがられる日が来るとは、アネスも思っていなかっただろう。だがミラの剣の腕は恐らく、アネスと同等かもう少し上だ。練習だけでなく実践からくる強さは、どんな経験よりも人を向上させる。
昨日のバアロフとの戦闘は、ミラにとって大したことのない『狩り』だったがアネスにはそうではなかった。それが彼には悔しく、ミラに負けないくらい、ミラを守れるくらい強くなりたいと思っていた。そう思う自分の気持ちには、本人さえもまだ気付いていないが。
「……魔獣を倒しに行きたい」
「いいねえ~。よし食後の運動も兼ねて行こうか。この時期なら東側にピットの群れがいるから練習に丁度いいでしょ」
「じゃあ残りのサンドイッチを持っていきましょ。夕飯になるような肉があるといいなあ」
切実なアネスとは反対に、ピクニックにいくような軽さのアンダルフォン親子だった。
最初のコメントを投稿しよう!