たちなさま。

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 ***  残念ながら彼女――Aさんとしておこうか。Aさんはそのあとすぐに亡くなってしまい、話を聞くことは叶わなかった。わかっているのは、彼女が海沿いの小さな町に住んでいるということ。  海へ出かけて戻ってきた後、風呂場で突然あのように発狂し、家族が気付いた時はパニック状態で手がつけられなくなっていたということ。  彼女の死因は失血死。骨が見えるほど腕を掻きむしったせいだった。危険な血管も、神経も、筋もずたずたに傷つけていた。そう、特に何か武器を使ったわけでもない、自らの爪だけでそこまでひっかいたんだ。どれほどの力か、どれほどの狂気か。もちろん、恐ろしく痛い思いをしたのは間違いないはずだろうに。 「Aさんの検査結果、どうだったんです?」  看護師長の問いに、私は首を横に振った。 「血液検査も、その他検査でも異常はなかったよ。まるで薬物中毒かと思うほどの有様だったが、おかしな成分は何も検出されなかった。一体何故、彼女はあんなひどいパニック状態になっていたんだろうな。以前からパニック障害があったとか、そういうわけではないようだし」 「そうですね、薬じゃないなら、とてつもなく恐ろしいものを見たとか?」 「恐ろしいもの、ねえ」  確かに、彼女は何かを恐れているようだった。腕をかきむしる痛みさえ感じないほど、何かに怯え、逃げたがっていたような。  むしろその恐怖から逃れるために腕をずたずたにひきさいていたかのような。 「わたし、ホラーとか結構好きなんですけど」  看護師長の彼女は、窓の外をちらっと見て言った。 「宇宙的脅威とか、邪神とか。海から来るみたいな話もありません?彼女、海で何かを見てしまったってことはないでしょうか。見るだけでSAN値削れちゃうような何か、とか」 「おいおい、君も看護士だろう。そんなオカルト本気で信じてるのか?」 「あくまで例えですよ。そうとでもしなきゃ、説明つかないじゃないですか。薬物が見つかったわけでもないのに、人があんなパニック状態になるなんて」 「うーん……」  仮に看護師長の指摘が正しいのなら、何で彼女は家に帰ってきてお風呂に入ってから発狂したんだ?という話になってくる。やばいものを海で見たら、その場でおかしくなりそうなもの。しかし同居の家族によれば、風呂に入るまではいつもと変わらない様子だったと言うではないか。
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