また笑う

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今日も今日とて、彼は不器用に伸びている。  硬質な筋肉をしなやかにおだてながら、初歩的なまでに伸びている。   初歩的というのは、分かりやすく言えば、初めて歩くことを経験する小鹿という感じだろう。  不器用だし、変にこわばっているから、実際にはあんまり伸ばせていない。  おまけに、彼の身体は首筋から下腿にかけてまで、目を見張るほどの筋肉質で、その筋肉は彼曰く、生まれつき硬めであるらしい。  幼い頃から人並程度のストレッチができなかった。開脚は碌に地面へ着かないし、胡坐をかいたら両足の角度が五十度くらいになってしまう。両腕はぐるぐる回すだけでも骨の音が鳴ったりするし、垂直に手を挙げることもちょっと難しい。柔軟は俺にとって拷問以外の何物でもない。  彼のこういう言い草を、不幸自慢という風には感じなかった。彼は本当に、心の底から、これはパワハラじゃないからなという言葉を定期的に挟みながらパワハラを継続してくる上司への不満をこぼすように、相当深刻に悩んでいる感じで、私にそう告げてくれたことがあった。 彼は自分の身体が人と比べてもだいぶ硬めであることを、かなり不利に思っているようだった。 私はというと、恐らく人よりかは柔らかめの身体を築けていると思う。築けているという言い方をしたのは、私の今の柔らかい身体が先天的なものではないからである。  六歳の頃から体操を習わされていた影響で、学校の体操の授業では度々すごいねと尊敬され、騒がれていた。体操教室の中では一番といってもいいくらいのできない子だったのに、比べられる対象が変更されると、たちまち私は一番に躍り出ることが頻発した。 嬉しいのかもよく分からなかったけど、少なくとも体操教室で抱えるような劣等感は学校では抱えなかった。 彼が身体の硬さで抱える悩みは、私にとっての、体操教室で散々感じていた劣等感のようなものなのだろうか。そんな風に連想してみるけど、ちょっと違うのかもしれない。 「今日雨か」  伸びながら、彼は掃き出し窓の方を一瞥して呟く。おかしくって、思わず鼻笑いしてしまう。たった今そのことへ気づいた風に言うから、余計に笑ってしまう。 「朝から降ってるじゃん」  今日が一日中降雨に見舞われるということも、昨日私と一緒に報道番組で見たし、予報通り今日の明朝から現在の夕方六時まで、ずっと雨に囲われて過ごしている。 明日は雨だから家にいよう。うん、そうだね。せっかくの休日なのに、もったいないな。たまにはいいでしょ、家でだらけるのも。たしかに。  そういうやり取りを昨日したのに、忘れてしまったのだろうか。今になって雨の存在に気づくって、どうしたらそんなことができるんだろうと首を傾げてしまう。不思議に思いながらも、やっぱり面白くて笑ってしまう。 「ああそっか」  彼はすんなりと、何の疑問も持たずに納得した。私はまた笑ってしまう。   相も変わらず、彼はさっきからずっと、伸びている。   でも、さすがに飽きが訪れたのか、さっきまで伸ばしていた両腕を元の状態に戻して、次は脚を伸ばし始める。両脚を頑張ってシャギーラグの絨毯に開いていく。  彼はしっかりと両脚を開けているつもりなのだろうが、私から見れば、これも不器用極まりない。  アルファベットのⅤをもう少しだけ広げたみたいな開脚を、彼はやっている。どれだけ頑張っても、彼にとってはそこが限界なのである。  でも、これでも成長した方なのだ。  彼が最初にストレッチをやり始めた当初、彼は今みたいなアルファベットのⅤをもう少しだけ広げたみたいな開脚というより、アルファベットのⅤそのものだった。 彼がこれから毎日ストレッチをすると宣言した日、私は彼のストレッチをする姿を初めて見た。彼が初めて私の前でやったストレッチが開脚だった。  でも、その時私は、彼のストレッチがもう始まっていることに、しばらく気づけなかった。 いつ始まるんだろうと思って、やらないの? と彼に尋ねたところ、今やってる、と喋りにくそうに、表情筋を強張らせながら返事をした。ちょっぴり汗もかいていた。 うそ、やってたの、と両手を合わせて口を塞いでしまうほどに驚いた。 それと同時に、私は彼と共鳴した。 彼は私と共鳴したことに、多分気づいていなかった。 でも、私はあの時、彼と確かに共鳴した。 私が体操教室で思われていたことを、私は彼に思った。 え、それって本気でやってるの? そう言ってきた体操教室の指導者に、慮る意志はないように思えた。 確かにその言い方でしか思ったことを表現できなかったのかもしれないけど、あの時の私は、その指導者が放った言葉に、小学生にもなってまだお漏らしをしてしまっていることがばらされたかのような感情を染み込ませられていた。 私が何か悪いことをしたわけでもなかったのに、その時の私は、とにかく、ありとあらゆる、罪悪感にも似た恥じらいを、抱いて感じて仕方がなかった。 体操教室へ通う人間にとって、未だにそんな身体なのって、もはや罪だからね。 多かれ少なかれ、指導者が言ってきたその言葉に、そういうようなニュアンスは含まれていた。含んでいなければ、あの時右も左も分からなかった初心者の私に、そんな言い方はしなかったはずなのである。 あの頃の指導者のように、そんな心ない思いを併合して彼にそう思ったわけではない。  私が彼に思ったのは、信じられないという意味合いはあるものの、あの時の指導者みたいな、“お前は人として終わっている”いったようなことではない。 本当に、純粋に、彼の披露した開脚が、今までに見たことはないくらいに、こぢんまりとしたものであったからだ。 私はしばらく、彼のそのこぢんまりとし過ぎている開脚を眺めていた。あんまり見ないものだったから、ひたすらに珍しく思って、じっと眺めていた。 そして、笑った。  全力を尽くして開脚をしていた彼は、私の方を振り向き、どうしたと尋ねてきた。 いやなんでも、と私は返した。続けて続けて、と私は彼に促した。彼は疑問符を頭上に浮かべ、釈然としないようにⅤの形の開脚をし続けた。 私があの時、指導者に思われていたことと同じ思いを、私は彼に抱いた。 しかし、私が抱いた彼への思いの本質は、あの時の指導者が私に抱いた思いの本質とは、全くの腹違いなものだった。 彼の懸命さが、逆上がりを達成しようと頑張る保育園児のように見えた。 筋肉が硬質でがちがちとしている自分の身体を不利に思って、もうアラサーであるというのに、今になっても彼は、幼い頃と何ら変わることなく、自分の身体を不利に思っていて、その不利な身体を良くするために、真剣にストレッチを行っている。 私は彼に、釘付けだった。 圧倒的に不器用さの滲み出る身体の伸びを、彼は毎日欠かさず、ストレッチを毎日やると宣言した日から、ちゃんとこなしているのだ。 そんな彼の、まだまだ発展途上な段階の伸びを、私は欠かさず見守っている。 今となっては年齢に似合わずどこか抜けている彼だけれど、彼の若い頃の話を聞くと、結構モテてはいたのだという。彼が噓をつけるとは思えないから、私は彼のその話を信じている。彼の昔の写真を見ても、かなりイケメンだと言うことができる。もしかしたら、今よりも天然具合がましであったのかもしれない。 「今日、ラーメンでいい?」 「ああ、うん。俺醬油がいい」  Vを少し広げたぐらいの開脚をしながら、彼は小学三年生のように答えた。彼は袋麺が今日の夕飯であると決まった時、必ず醬油か塩のどちらかを希望する。大体は交互に希望する。つまり、次に夕飯がラーメンの日は塩の確率が高い。  給湯器でお湯を沸かして、二人分の醬油ラーメンを袋から出し、器にセットする。数分してお湯が沸いて、二人分の醬油ラーメンへ注ぎ切る頃には、給湯器がほとんど空っぽになっていた。  ラップで蓋をした二人分の醬油ラーメンを、Vを少し広げたぐらいの開脚を懸命にしている彼のすぐ隣のテーブルへ持っていく。 「今日ってイッテGOか」 「ああ、うん。そういえばそうだね」  うしうしと嬉々として呟きながら、彼はまだVを少し広げたぐらいの開脚を続ける。まるでイッテGOがストレッチを頑張った後のご褒美として設定されているようだった。私はまた笑った。  そうやって彼を観察していると、いつの間にか三分が経った。  でも私は、二人分の醬油ラーメンのラップを開けなかった。  忘れていたわけではなく、あえて開けることをしなかった。  彼がいつ、いくらなんでも時間が経ちすぎていることに気づくのか、検証してみたかった。  しかし、彼はなかなか気づく気配がなかった。  彼はストレッチにだいぶ集中しているため、私が醬油ラーメンを持ってきたことすら、多分認識していない。  これだけ近い距離にラーメンがあれば、匂いもしてくるはずなのに、彼の嗅覚は機能を果たすことをしなかった。  持ってきたことにも気づいていないのなら、相当長い時間この醬油ラーメンは放置されることになるだろう。  そうして彼が気づくことを待っていると、彼は「うしここまで」とそれなりの荒い息と共に呟いた。どうやらストレッチが終わったようである。  彼はこっちを向くと「おお旨そう」と漏らした。一度トイレに行ってきて帰ってきた時、ようやく彼は異変に気づいた。 「なんか冷めてへんこれ」  トイレに行く前の、醬油ラーメンの存在に気づいた瞬間は嬉しそうにしたくせに、熱々でないことを汲み取った途端、彼は分かりやすく落胆し始めた。私はまた笑う。 「そりゃあ、三十分も経ってるからね」  微塵も悪気を感じていないように私は返した。彼はまじかよとだけ言ったが、それでもいいやという風にテーブル前へ座っては、置いてある箸を手に取って、たあきゃあすと挨拶をする。いつもだったら私がラップを取ってあげているが、今日は彼が自分でラップを取って、かなり冷めてしまったラーメンを当然のように食べ始める。  私はやっぱり笑わせられる。  普通だったらなんで三十分も放置したんだと怒られることなのに、彼はそれを仕方のなかったこととして処理して、文句も言わずに食べている。彼のこの対応を優しさだと捉えるには、ちょっと違うかなと思った。 「たまには伸びてるラーメンもいいかなって思って」  私は床に座って彼にそう言う。なかなかに正気の沙汰ではないことを言っていると自分でも思う。 「まあ、たまにはいいかもな」  彼は不貞腐れてもいないような、納得がいっていないわけでもないような、でもどこかしらに普段とはちょっと違う感情を滞留させている顔をしていた。 「たまにはいいんだ」  肩を小刻みに揺さぶりながら、またしても私は笑ってしまう。  さすがに彼とて、次からは麺伸ばすなよなんて言ってくるかと思ったが、彼は伸びている麵がたまに提供されることをたった今、肯定してしまった。 「でも私は、伸びてる麵の方が好きかもしんない」  彼は麵を啜ることに夢中になっていてしばらく返事がなかったが、キリのいいところまで啜り切ると「ほうなん」と麺が口の中へ入った状態のくぐもった声で返してきた。 「麵がスープ吸ってる分、なんか味わい深いというか、美味しさが充実してる感じがするし」  彼はまた一括り麵を啜ってはくぐもった声で「ほっか」と言った。  一見、そんなに話を聞いていないように見えるけど、彼は多分、しっかりと私の話に耳を傾けてくれている。彼はふとした時、思い出すようにしていつしかの話題の返答をくれるときがある。今みたいに、ラーメンを啜るのに夢中になっている時は、なかなか言葉を返してくれることがない。   でも、多分明日か明後日、彼は、脈略も何も関係なしに「伸びてる麵もええかもな」といったようなことを呟いてくれる。私は度々何のことなのか頭を探って、ああ、あのことかと思い出せたら、いつも「おっそ」と笑いながら返す。すると、決まって彼は「主役は後から登場する」と啖呵を切るように言う。「ちょっと違うって」と私がつっこむまでが恒例となっている。  こんな彼にも、周囲の女たちを射止めてきた過去があるんだなと思うと、また笑ってしまいそうになる。  今よりもずっと若い頃の彼に、ちょっとだけ興味はある。   でも、会ってみたいかと言われたら、そんなに、かもしれない。  別に、過去の彼に会ったって、仕方がないというか、 仕方がないわけでもないんだけれど、どっちでもいいかなという感じである。  昔のイケメンな彼が好きなわけじゃない。  伸びた麵みたいに、内側にスープを吸収し尽くした麵が好きな人なんて、あんまりどころか、ほとんどいないだろう。  誰かに、今の彼と、昔の彼の写真とどっちがお好みかを尋ねれば、九割の人は、昔の彼の写真の方を選択すると思う。   でも、伸びた麵でもそうだけど、ゆるゆるで、柔らかくて、全然弾力なんてないのに、あっさりとして、ほんのりと美味しい方が、私は好きなのである。  誰も好まない方の、おっとりとした、かなり抜けている彼の方が、私は好きなのである。  彼はまだ、伸びた麵を啜っている。  疲れないのかなというくらい、真剣に啜っている。  私はまた、笑ってしまう。
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