4人が本棚に入れています
本棚に追加
この世に潜む垢嘗の手におえない人間たち
【垢嘗(あかなめ)】
河童のようだったり、ざんぎり頭の童子だったり、足にかぎ爪があったりする。
風呂桶や風呂にたまった垢を嘗めるが、垢だけでなく人間の表皮から剥げ落ちる皮脂や角質などの成分も摂取しているという。
「垢ねぶり」とも呼ばれていたり、肌が青黒かったり、美女で血肉を舐めたりと諸説がある。
わたしの息子は物心がついてから、人の手を舐めるという癖をつけてしまった。
みんなの手を舐めるわけではないし、相手は大人が多いけど、不衛生だし、人が不快に思うことなので、もちろんやめさせようと。
頭ごなしに叱るのではなく、絵本を読み聞かせたり、アニメを見せたりしつつ、筋のとおった言い分で諭すも、まるで効果なし。
まあ、舐められたほうが意外に怒ったり不快感を露にせず「なんて教育をしているの!」と責めてもこないから、今はまだ、いいものを。
大目に見てもらえるのは幼いときだけなので「今のうちに、どうにか!」と日日、四苦八苦。
なるべく息子が人と接するときは目を光らせて、舐めるまえに退かせたりと、対策をしていたのだけど。
フリーマーケットに遊びにいったときのこと。
お婆さんが手編みの小物を並べていて、その子供用のニット帽を購入。
「はい、ありがとうね」と差しだされ、受けとった息子は、身を乗りだして手をぺろり。
慌てて「すみません!」と息子を引きはなし、ウェットティッシュを差しだすも「ふふ、ぼくちゃん垢嘗めみたいね」とお婆さんはにっこり。
ウェットティッシュを浮かせたまま「垢嘗め?」と首をひねると「ああ、妖怪のことよ」と意外なことを。
「名のとおり、お風呂場についた垢とかを舐める妖怪でね。
子供のようなすがたをして肌が真っ赤なの。
ぼくちゃんは、ほっぺが真っ赤っかだし、すこし似ているなって」
舐められた人は、たいてい「いいよいいよ」と寛容で、お婆さんもその点は同じながら、息子を妖怪に例えたのは初めて。
「遠まわしのいやみ?」とやや眉をひそめれば、察しのいいお婆さんは「気を害したなら、ごめんなさいね」とわるびれてなさそうに。
「妖怪といっても無害だし、なんなら、舐めるのはいいことだと思われている。
というのも『垢』は、お風呂とかにつく汚れだけじゃなく、心の穢れを意味するものであるから。
ぼくちゃんが舐めることで、その人にご利益があるかもしれないわね」
フォローはしてくれたとはいえ「人の息子を妖怪呼ばわりして」とやはり、いい気はせず。
一応、別れの挨拶をしつつ、その場からそそくさと離れたもので。
家に帰ってもむしゃくしゃして、荒荒しく野菜を包丁で切っていたら、これまた、むしゃくしゃしたように扉を叩きつける音が。
会社でいやなことでもあったのか「ただいま」もなく、帰宅した夫は、リビングに鞄を放って、背広を投げつけ、ソファにどさりと倒れかかって。
見よがしに不機嫌オーラを放っていたとはいえ「パパ、おかえり」と寄ってきた息子が、手をとって舐めると。
とたんに目尻を下げて「おう、ただいまあー」と息子に抱きついて、二人してきゃっきゃ。
仕事でストレスをためこみやすい夫は、苛立ったまま帰宅するも、息子が顔を見せれば、こうして気分上々に。
子供好きで親馬鹿だからかと思っていたが、ふとフリーマーケットのお婆さんの言葉がよみがえって。
そういえば、息子が風邪を引いて寝こんだとき、夫は帰ってからずっと苛苛して翌日帰ってくるまで変わらず仏頂面のままでいたような。
まさか、舐めなかったから?
「いや、そんなまさか」と自らすぐにツッコミ、それ以上、深くは考えず。
一週間後、息子が妖怪に例えられたことをすっかり忘れて、今日はダンススクールの体験教室に。
「そろそろ習い事を」と考えていたところ友人に誘われてのこと。
そう気負わずに見学するつもりだったのが、幼児クラスのコーチが、アイドルのような若いイケメンで、わたしたち母親は大興奮。
容姿が優れているだけでなく、物腰柔らかく、愛想もよくて、子供への対応もばっちり。
まずは腰をかがめて、子供たち一人一人と握手をし、名前を聞いて「よろしく」と挨拶。
王子様のように子供を丁重に扱うさまに、つい見惚れて油断してしまい。
息子の番になったとき、握手をしたなら、その手をぺろり。
「しまったあああああ!」と猛ダッシュしたとはいえ、その場に辿りつくまえに、息子は屈みこんで嘔吐を。
まるで、先生の手が不味いとばかりに。
「す、すす、すすすすみません!
今日はもともと体調がよくなかったのかな!?
それに緊張が重なってしまったのかも!
ほんとう、ご迷惑をおかけして、すみません!」
弁解と謝罪を畳みかけ、いつも持ち歩いているタオルで床を拭き、ハンカチで息子の口を拭ってウェットティッシュを丸ごとコーチに差しあげて。
深深と頭を下げたなら、逃げるように帰宅。
家について「だいじょうぶ?」とあらためて聞いたものを「なにが?」と息子はけろりとして、テレビのまえで伸び伸びとダンスを。
それから寝るまで、いつもと変わらずに元気いっぱい。
体調を崩したわけでなさそうで、ということは、やっぱりコーチを舐めたせい?
「いや、そんなまさか」と再度、自らツッコんだとはいえ、なんとなく、もうダンススクールにいく気になれず。
そりゃあ、どの面さげて、とも思うが「イケメンコーチと毎週会える」という下心からの未練もなくて。
それから、またまた一週間後、体験教室に誘ってくれた友人から連絡が。
「ねーねー!聞いた!?先週、見にいったダンススクールのイケメンコーチ捕まったんだって!
なんでも更衣室に隠しカメラをつけて、子供たちの着替えを盗撮していたとか!
いやー、正直イケメンコーチに目がくらんだとはいえ、うちの子供いれなくてよかったー!
いや、ね。あなたの息子さんが吐いたの見て、なんでだろうね、いやな予感がしたのよー!」
電話を切ってから、しばし呆然とし、ふらふらとテレビのまえで踊る息子のもとへ。
そばに座って、お尻をふるのを眺めながら「ねえ」と。
「コーチの手は、そんなに不味かったの?」
「んー」と踊りをやめず、にこやかに息子が応じたことには。
「舐めても、どうしようもなかったね!」
すくすくと成長して、ほっぺの赤みが消えたころには息子の癖はすっかり直ったもので。
めでたしめでたしと思いたいところ、あのときの一言を、わたしは忘れられないでいる。
最初のコメントを投稿しよう!