十七 八郎との別れ

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十七 八郎との別れ

 弥生(三月)十一日。曇天の夕七ツ半(午後五時)。 「ただいま帰りました」 「お役目、ご苦労様でした」  八重はいつものように、帰宅した八郎から刀を受けとって刀箪笥に入れた。 「手を洗って、お座りくださいな」 「はい」  八郎は流しの横で手を洗って口をすすぎ、八重を抱きしめて唇を重ね、八重とともに畳の間に上がって夕餉の膳に着いた。 「夕餉を食べください。お酒をどうぞ」  八重は八郎に酒を勧めた。八重の懐には木村玄太郎がしたためた文がある。八重は文を八郎に見せずにいた。 「どうした。浮かぬ顔をしているが、何かあったか」  八郎は菜を摘まんだ。菜の花の和え物はいつもの味だ。八重に何かあったと思うのは私の思い違いか・・・。 「八郎様に隠し事をできませんなあ・・・。  夕餉がすんでから話しますゆえ、慌てずに食べてください」  八重は八郎を見つめた。正妻になるのを拒んだ私だ。一度言いだしたら梃子でも動かぬ私の性格を八郎様はわかっている・・・。 「あい、わかった。八重も飲んでくれ」  八郎は八重から銚子を受けとった。八重は盃を持って八郎に差し出した。八郎は八重の杯に酒を満たした。 「初めての日。ずいぶん飲みましたなあ。蒲鉾も酒も、おいしゅうございました・・・」  八重は盃を膳に置いた。銚子を取って八郎の盃に酒を注いだ。 「恋い焦がれた八郎様に抱かれて初めての睦事、八重は幸せでした・・・」  八重は初夜を懐かしんでいた。 「何を言うか。これからも、ともに暮すのだぞ・・・」  そう言った瞬間、八郎は気づいた。私としたことが迂闊だった。異変があるとすれば、仙台に指物を仕入れに行った父の源助だ。仙台に行ってひと月になるのに、いったい私は何を考えていたのか。源助に何かあったのは間違いない・・・。今は夕餉が先だ・・・。 「飯をよそってくれぬか」 「はい。食べてください」  八重と八郎は静かに夕餉を食べた。  夕餉がすむと八重は膳を片づけ、懐から文を取りだして八郎に渡した。 「実は、仙台の従叔父がこれを届けました・・・」  八郎は文を拡げた。読み進むうちに顔色が変わった。  文には、八重の父の源助が仙台に指物を仕入れに行って流行病にかかり、八重の従叔父の屋敷で他界したとしたためてある。知らせは八重の従叔父で、源助の従弟の木村玄太郎からだった。八郎は何も言わずに八重をしっかり抱きしめた。  八郎に強く抱きしめられ、根無し草のように心許なかった八重の心は八郎の懐に留まった。八郎様といつまでもこのまま暮らしたいが、父と妹多恵が殺された怨みを、この私の手で晴したい・・・。その事を八郎様に話せば、八郎様は私に、危険だから手出しはならぬ、と言うだろう・・・。  仙台の与三郎の元から女たちが逃げて、多恵が亡くなった今、与三郎が仙台で夜盗をしていた証はない。父と従叔父の討ち入りは御法度のはずだ。従叔父の証言は公にできぬ。八郎様は、与三郎の殺しと盗みの証を見つけられぬ・・・。与三郎を捕縛するには、与三郎の罪を示す証が必要だ。なんとしても、その証を作らねばならぬ・・・。  その夜。  八郎は八重と睦み合うことなく、八重をしっかり抱いたまま褥に横たわった。私は、天涯孤独になった八重をしっかり守ってゆかねばぬ・・・。八郎はそう思った。  木村玄太郎がしたためた文には、源助の妻の奈緒の事も、妹の多恵の事もしたためてなかった。源助が人別帳に、父と娘の二人暮らし、と記載したため、八郎は今もって、八重が父と娘の二人家族と思っていた。  その後。  八重は、父の源助と妹の多恵が故郷の仙台で他界した事から気を病み、無口になった。  八重は理由も話さず、八郎に、 『三行半を書いてくれ』  とせがんだ。  八郎の従叔父の吟味与力藤堂八右衛門や町奉行の助力にも関わらず、八重の心は頑なだった。  卯月(四月)二十日。  理由を話さぬ八重に困りながら、八郎は三行半を書いた。ともに暮らして一年が過ぎた二年目、八重が十九歳の春だった。  八重は八郎と別れて読み書き算盤の教授を辞め、佐恵が寝泊まりしている日本橋元大工町二丁目の父の長屋へ引っ越した。呉服問屋加賀屋の仕立ての仕事は続けていた。これを辞めたら、加賀屋と関わりがなくなり、八重と佐恵の謀が無になってしまう・・・。  日本橋元大工町二丁目の長屋の大家は、佐恵が寝泊まりした時から、八重が源助の長屋に引っ越してきたと思っていた。八重と佐恵が瓜二つの姉妹と知るのは、麻と、麻の父、大工の八吉だけだった。  その後。  昼の佐恵は八重の従弟の木村多恵之介に扮して日本橋元大工町二丁目の長屋で暮し、麻の長屋に出入りして、新たに江戸市中に店開きした口入れ屋を探した。  八重は長屋にいて、加賀屋から頼まれた呉服を仕立て、夜になると、探索から戻った多恵之介に扮した佐恵に、加賀屋の内状と、加賀屋の主の菊之助について説明した。  これまで加賀屋の主の菊之助は、八重が番頭の平助から頼まれた仕立物(仕立た呉服)を届けるたびに、店先に出てきて、八重から仕立物を受けとっている。 「これまでのように、加賀屋の呉服の仕立てを引き受けて、仕立物を届けます。  そして、主と親しくなり、雇ってもらうように計らい、奉公に上がります。  八郎様と夫婦になる以前から、主は私に惚れています。私たちの思い通りになるはずですが、主の方から言い寄ったと世間が認めるようにするのです。さすれば、不審に思われませぬ」 「伽を求められたら姉上が応ずるのですか」  佐恵は興味深い眼差しを八重に向けた。八重は聞き返した。 「睦事は好きかえ」 「はい。相手にもよります。操は与三郎に奪われました・・・」  佐恵はそう言って唇を噛みしめている。 「主はなかなかの男です。佐恵の好みかも知れませぬ。うまく取り入りまする」  八重は、八重が気づいた加賀屋の主の菊之助について、さらに詳しく説明した。 「主について、良くわかりました。  姉上の奉公が決まっても、私が多恵之介に扮して与三郎を探索します」  佐恵はそう言った。与三郎の顔を知るのは佐恵と木村玄太郎だけである。 「では、私と佐恵が交代で、八重として奉公しましょう。  何かあれば、私と佐恵のどちらが多恵之介に扮するか決めましょう」  八重は、八重と佐恵の、加賀屋潜入と与三郎探索の役割分担を説明した。 「あたしは何をしたらいいのかえ」  麻が八重に訊いた。 「お麻さんには、大事な事をお願いします。  私が加賀屋に雇われたら、私と佐恵の体調と、天気やこの日本橋界隈の行事や人の動きなど、その日の様子を見て、私たちがどう動けば良いか、采配を振ってください。  私が疲れていれば、佐恵に加賀屋へ潜入してもらいます。  加賀屋には、 『父の長屋に位牌と遺品があるゆえ、朝と夕に供養と掃除をする』  と納得させます。  お麻さんは、私たちがどのように動けば良いか、指示してください」 「わかったよ。抜かりなく二人が動けるようにするわさ。任せておくれ。  一世一代の大博打だよっ」  麻は笑った。
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