十八 奉公の誘い

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十八 奉公の誘い

 皐月(五月)十三日。晴れの昼八ツ半(午後三時)。 「平助さん。仕立て物(仕立てた呉服)を持ってまいりました」  加賀屋の店の左手の土間で、八重は番頭の平助に声をかけた。 「いつも、すみませんねえ。今度はこちらをお願いしますよ」  平助は仕立てた呉服の入った風呂敷包みを受けとり、新たに、反物が入った風呂敷包みを八重に渡した。 「寸法の書き付けと仕立て糸を中に入れておきました。また、よろしくお願いします。  それと、旦那様からお話がありますので、奥へお入りください。  お加代さん。八重さんを案内しておくれ」  平助は土間の奥へ声をかけた。 「はあい」  土間の奥の台所から、加代の屈託ない声が聞こえ、ぱたぱたと草履の音がし、笑顔の加代が現われた。平助と八重を見て微笑み、こっちにどうぞ、と八重の手から風呂敷包みを取って土間を奥へ歩きだした。八重は平助に挨拶して加代についていった。 「ここだけの話ですよ。旦那さんは八重さんにぞっこんですよ。八重さんが独り身になったと聞いて、八重さんには上女中として奉公して欲しい、と言ってましたよ。  今日、その話をする気ですよ。  あたし、八重さんがお店にいてくれたら、うれしいなあ」  加代がそう話しているあいだに、二人は土間から板の間に上がり廊下を進み、障子を開け放った奥座敷の外廊下に着いた。 「旦那さん。八重さんをお連れしましたよ」  加代は立ったまま、奥座敷の隅で書き物机に向かって座っている主の加賀屋菊之助に、八重の到着を伝えた。  八重は外廊下に正座して御辞儀した。そして、そのまま顔を上げずにいた。  菊之助は座っている向きを変えた。 「八重さん。面手をお上げください」  八重は顔を上げた。 「お加代。すまないねえ。お茶をお願いしますよ」 「はあい。今、お持ちしますね。八重さん、これをお持ちくださいね」  顔を上げた八重に、加代は風呂敷包みを渡した。 「はい、ありがとうございました」  八重は加代から風呂敷包みを受けとった。加代は台所へ向かった。 「八重さん。忙しいのに御足労いただいて、すみませんね」  菊之助は畳に手をついて丁寧に頭を下げて挨拶した。そして、顔を上げると、 「ササ、こちらにお座りください」  と奥座敷に上がるよう手招きして、書き物机の前から立った。 「はい」  八重は奥座敷に上がった。  菊之助は、床の間を背にした座布団に座った。菊之助から離れた手前に座布団がある。八重はその座布団に正座した。 「呉服の仕立てはどうですか」 「はい。特別な事はありません。寸法通りに仕立てるだけです」 「愚にもつかぬ問いでしたね。本題を話しましょう。  独り身になったとお聞きしました。北町奉行所から聞いていますので、野暮を言う気はありません。  加賀屋で働きませんか。上女中として下女たちを仕切って、私の身の周りの世話をしませんか。いや、そうではないですね。  ここで働いてください」  菊之助は再び丁寧に頭を下げると、熱い眼差しで八重を見つめている。  八重は思いだした。加賀屋の呉服を仕立てるようになった当初、番頭の平助が仕立方法を指示して、仕立てた呉服を平助が受けとっていた。  だが、八重が主の菊之助と顔を合わせた折から、菊之助が店先に出てきて仕立物を受けとり、二言三言話すようになった。  その後、八重が八郎の側室になったのを聞いたらしく、菊之助は仕立物を受けとって挨拶する程度で、話をしなかった。 「仕立てをやめて、御店で働けと言うのですか」  私が独り身になったと知り、加賀屋菊之助は何か企んでいる・・・。 「そうです」  菊之助の顔は笑っているが、何かを探るように、眼差しが威圧的になっている。 「お断りしたら、仕立ての仕事はない、と言うのですね」  私を脅す気か・・・。 「そうは申しません。八重さんは読み書き算盤を教授なさっていた。その才をこの加賀屋で活かして欲しいのです。ここまでは表向きのお願いです。  本当は・・・」  菊之助がそう言った時、加代が茶菓を運んで現われた。 「もうっ、まどろっこしいったらありゃしないっ。旦那さんは八重さんにぞっこんなんですよおっ。だから、八重さんに、ここで働いてもらって、旦那さんは、身の周りの世話をして欲しいんですよおっ。  ほら、かんたんに言えたでしょう・・・」  加代は八重と菊之助の前に茶菓を置いて、にっこり微笑んでいる。 「まっ、そういうことです・・・」  菊之助の顔が熟れた柿のように真っ赤になった。  加代と八重は菊之助を見て声を上げて笑った。そして八重は思った。  菊之助は三十過ぎと聞くが、見た目は歳より若い。そして心はもっと若い・・・。 「では、この仕立物を届けた折に返事を差し上げる、それでかまいませぬな」  八重は菊之助に、武家の妻女の口調で威圧的に答えた。ここで下手に出たら、今後全てが菊之助の言いなりになってしまう・・・。 「ごもっとも、ごもっとも。慌てなくていいのです。なにぶんにも八重さんの気のすむようにしてくださいまし」  菊之助は低姿勢だ。こうなると、どっちが仕事を依頼しているのかわからなくなる。  その場を去らずにいる加代は、声をあげて笑った。  笑いは八重と菊之助を巻きこんだ。  菊之助は、主の話に口出しした加代を咎めなかった。むしろ、よくぞ主に代わって主の思いを話してくれた、と優しい眼差しで加代を見ている気がした。  加賀屋菊之助は巷の大店の主とは違う。菊之助は度量の大きい、そして心根の優しい男のようだ・・・。 「もし、こちらに御厄介になるとしたら、通いにしてくだされ。  噂でお聞きと思いまする。長屋には父の位牌と遺品があります。朝と夕の二度、位牌にお参りしていますので・・・」 「いや、ごもっともな話です。そうなさってください」  菊之助は加代を見て、ほっと安堵の溜め息をついた。  八重がここまで話したので、菊之助はすでに、八重が加賀屋に奉公するのを承諾したように思っているのが見て取れた。 「旦那さん。八重さんは、まだ、奉公を承諾してませんよ。もっと、下女たちが良く扱われているのを見せてあげないと、八重さんは不安ですよお」  加代はにこにこ笑いながら菊之助を見ている。加代なりの交渉術だ。 「これ、何を言うんですか。奉公人は、皆が加賀屋の家族ですよ。  ですから、番頭の平助に暖簾分けして店を持たせ、お前といっしょにしようと思ってますよ」  菊之助はそう言って加代を見つめた。 「約束ですよ。うそついたら針千本ですよ。  旦那さんも、早く御内儀さんをもらわないといけませんねえ」  加代は八重を見て微笑んでいる。  上女中の話が出て、今度は菊之助の御内儀の話だ。加賀屋では、私の事が菊之助の御内儀に取り沙汰されているらしい。これなら、慌てずに菊之助の出方を待とう・・・。  そう思いながら、八重は、 「では、これで長屋に戻りまする」  茶菓に手をつけぬまま、挨拶してその場を立とうとした。 「お加代。お前から見た御店の事など、八重さんに話してあげなさい。  私の話は、主としての男の立場だ。女の立場と違う。台所仕事は他の者に任せて、八重さんに御店の事を説明してあげなさい。台所にはそのように私から話しておきますよ。  八重さんはゆっくりしてゆきなさいまし。  お加代。頼みましたよ」  菊之助はそう言って八重に挨拶し、その場を立った。  菊之助が座敷を去ると、加代は、菊之助と奉公人たちについて話した。 「旦那さんは八重さんを前にして恥ずかしいんですよお。かわいいとこ、あるでしょう。  なにせ、八重さんに初めて会ったときに一目惚れして、それ以来、仕立物を受けとるたびに八重さんと話して、八重さんにぞっこんなんですからね。  旦那さんは心底、八重さんに惚れてますよお。  旦那さんはいい人ですよ。優しいし、面倒見はいいし・・・」  加賀屋の先代は菊太郎といった。現在の主は菊之助三十二歳だ。菊之助の放蕩が災いして菊太郎は苦労した、と加代は話した。そのせいで、父の菊太郎も母の久江も五十過ぎで他界した。以後、菊之助が加賀屋の身代を継いでいる。菊之助にはまだ御内儀はいない。  大番頭の直吉は三十歳。主に仕える律儀な男だ。日本橋呉服町二丁目の裏長屋で女房の美代とともに暮らし、長屋から加賀屋に通っている。  番頭の平助は二十五歳。真面目なのだが、ちょっと抜けている。下女の加代と将来を契った仲だ。  手代の勘助と三吉は十八歳と二十歳。  奉公人は、男が二十三人。下女が九人。上女中はいない。  これだけの呉服問屋に上女中がいないのは妙だ、と八重は思った。  夕七ツ(午後四時)  八重は元大工町二丁の長屋に戻って障子戸を開けた。長屋に誰もいない。  八重は雪駄を脱いで土間から畳の間に上がって、加賀屋から預った仕立用反物の風呂敷包みを栁行李に入れ、前掛けして細帯で襷掛けし、小袖の袖を細帯にたくし上げ、草履を履いて土間に立って流しで夕餉を仕度した。  夕七ツ半(午後五時)  夕餉の仕度が整った頃、隣の麻の長屋に人が入る気配がした。そして、麻の長屋との堺の壁が忍者屋敷の隠し扉の如く音もなく回転し、総髪茶筅の若衆と麻と、麻の父大工の八吉が畳の間に現われた。ただちに扉は元通りの壁に戻り、八吉と麻と若衆が畳に座った。若衆は髪を総髪茶筅にした佐恵だった。  八重は畳の間に夕餉の膳を運んだ。 「八吉さん。本来なら、お麻さんは父の妻。八吉さんは義理の祖父になるはずでした。  今となっては、お麻さんは私たちの姉も同然。義姉上と呼ばさせていただきます。  八吉さんは義伯父上と呼ばせていただきます。  義伯父上、隠し扉、ありがとうございました」  八重は八吉に向かって丁寧に御辞儀した。 「畏まらんでいいってことよ。大工現場の人足に、どこの口入れ屋の口利きで来たか、それとなく訊いてる。そのうち、新しく店開きした口入れ屋がわかるだろうぜ」  そう言って八吉は麻と佐恵を見て、与三郎探索を説明するよう促した。 「あたしと佐恵さんは、口入れ屋が多い街道筋を探ってる。口入れ屋を開くとすれば、江戸に入る街道筋だ。仙台からなら奥州街道の宿場、千住辺りだと思う」と麻。 「今のところ、千住に店開きした口入れ屋はありません。  義父から何か知らせがあると良いのですが」と佐恵。  八重は、夕餉を食べながら聞いてください、と言って説明した。 「加賀屋の主から奉公の誘いがありました。次回、仕立物を届けた折に返事をします。  通い奉公を話しておきましたが、住み込みになっても、長屋には父の位牌と遺品があるゆえ、朝夕の二度、位牌にお参りすると話しておきましたから、ここに通ってこれます。  加賀屋に慣れたその折は、口入れ屋を探さねばなりませぬ。それまで時があります。  なにぶんにも、内密に探ってください。  さあ、義伯父上。お酒をどうぞ。皆さん、食べください」  八重は熱燗の銚子を持って、八吉の盃に酒を注いだ。
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