十九 奉公の打ち合わせ

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十九 奉公の打ち合わせ

 皐月(五月)十五日。晴れの昼八ツ半(午後三時)。  八重は仕立物(仕立た呉服)を加賀屋に届けた。 「ささっ。奥へお上がりください。お加代さん。案内してさし上げなさいっ」  番頭の平助は店先で八重から仕立物の風呂敷包みを受けとって、加代を呼んだ。 「はあい」  加代が店の座敷から現われて、店の左手にある奉公人用の土間へ八重を導いた。 「八重さんっ。奉公するって、決心したんですねっ」  八重が答える前から、加代は、八重が加賀屋に上女中として奉公すると決めてかかっている。 「はあい。いろいろ教えてくださいね」 「八重さんなら、だいじょうぶですよ。算盤もできるし、仕立ての段取りは早いし、すぐに下女たちを仕切れて、旦那さんの身の周りの世話もできますよお」 「そんなにたくさんの事をするのですか」 「どおってことないですよ。あたしらがすることは決まってるから、それを確認することと、旦那さんの身の周りの世話と、旦那さんの仕事の手伝いですよお」 「確認事がたくさんあるのですね」 「はあい。旦那さんの身の周りの世話の他は、旦那さんの仕事をするんです。大福帳を見て、仕入れと売りを確認して、店の切り盛りをするんですよお」 「読み書き算盤の教授をしていたためでしょうか」  土間を奥へ歩きながら、八重は、とんでもない事になった、と思った。 「はあい。旦那さんは、初めて八重さんが仕立物を届けたときから、八重さんにぞっこんだったんですよお。八重さんが読み書き算盤も教えていると知って、なおさら惚れ込んだみたいでしたよお。だから、今まで上女中がいなかったんですよお」  なんてことだ。私が長屋で読み書き算盤を教えて、初めて加賀屋に仕立物を届けたのは十五歳の時だ。あの時から主は私に目をとめていた。あの頃の加賀屋の主はすでに菊之助だった・・・。  そうこうするうちに、奥座敷に着いた。 「こちらに座ってくださいねえ。すぐに茶菓をお持ちしますよお」  加代は、八重を奥座敷の床の間に向かった座布団に座らせた。目の前に主の加賀屋菊之助のための座布団がある。  加代がその場を去ると、入れ代わりに菊之助が現われた。  八重は座布団から降りて菊之助に挨拶しようとした。 「そのままに、そのままに・・・」  菊之助はそう言って座布団に座り、 「こちらに奉公してくださいますね」  と優しい眼差しで八重を見ている。 「はい・・・」  八重がそう答えると、菊之助は満面の笑顔になった。そして、 「実は八重さんが奉公すると考えて、店の者に話をつけておきました。  下女たちの仕事についてはお加代に訊いてください。  店の事は大番頭の直吉に、私の身の周りの事はお加代に訊いてください」 「それならば、旦那様は、御店で何をなさるのですか」 「私は奉公人と、そして、八重さんを見ていよう・・・」 「そのように、じっと見られたら、何もできなくなってしまいまする」  八重は菊之助を見つめた。 「そうですよ。恋い女房じゃあないんですよお。今からそんなに見られてたら、八重さんは何もできなくなってしまいますよお。  ねえ、八重さん」  加代が茶菓を持って現われた。八重の右横に座って八重と菊之助の前に茶菓を置いた。  八重は菊之助を見つめて答えた。 「旦那様の眼差しが熱うございますと、仕事に差し支えまする」 「それもそうだな。奉公人の扱いは平等にせねばならぬ・・・。  お加代。八重さんにいろいろ説明してあげなさい」  菊之助は八重から目をそらして畳の茶菓を見た。八重の言葉を聞き入れている。 「はあい。八重さんもお父上の世話をなさっていたと思います。お父上と同じように旦那さんを世話すればいいんですよお。  御店の事は、読み書き算盤の教授と同じです。大福帳の仕入れと売りに、金額の違いがないか、調べればいいんです。  あたしたちの仕事は、八重さんがなさってきた、台所の仕事と同じですよお」  加代はそう言って八重に微笑んでいる。上女中並みにこの御店の内情を知っているお加代は、どういう下女なのだろう・・・。 「御店の事をいろいろ知っているお加代が下女なのを、ふしぎに思っておいででしょう。  先代の父が健在の折は、母が父とともに御店を切り盛りしておりました。  二人が他界して私が身代を継ぎましたが、上女中はおりませんでしたから、何かとお加代が私の身の周りの世話をしていました。  お加代が上女中になっても良かったのですが、お加代には番頭の平助がいますから、お加代も平助の思いを考えて、下女のままでいることを望んだのです」 「それだけじゃないですよお。旦那さんは、仕立物を届ける八重さんに一目惚れして、大番頭の直吉さんが勧める他所の上女中に、見向きもしなかったんですよお。  だから、あたしが身の周りの世話をしたんです。おかげで、大福帳もわかるようになりましたよお。算盤は苦手ですけど」 「番頭の平助がお加代にいろいろ教えましてね。平助はお加代の良い亭主になりますよ。似合いの夫婦ですね」  菊之助がそう言うと、加代の顔が赤くなった。 「もおっ。旦那さんたら、こんなときに何を言うんですか」 「いや、すまないねえ。  さてさて、それでは、お加代からいろいろ、教えてあげてください」 「私からお願いがありまする」  八重は話した。 「当初は、通い奉公と申しましたが、住み込みにしていただけませぬか。  朝夕の二度の長屋への通いは、ご容赦くださいませ」 「当初の約束です。ここに住み込んで長屋に通って、父上の供養をなさってください」  菊之助は八重の話を納得していた。 「ありがとうございます」 「そしたら、八重さんは朝餉と夕餉の後に、長屋へお線香を上げに帰ってくださいね。  火の元には気をつけてくださいね」  加代は火の元の確認を気にしている。 「はい。長屋の隣の方に、お願いしてあります」  八重はそう言ってから思った。長屋には、佐恵が扮した若衆の従弟の多恵之介もいる。ここまで話して良かっただろうか・・・。 「それなら、安心ですよお。  そしたら説明しますね。お茶を飲んで、お菓子を食べてながら聞いてくださいね」  加代は加賀屋の上女中の仕事を説明した。  お加代は下女というが、お加代の才は下女どころか並みの上女中人より優れているのではなかろうか・・・。八重はそう思った。  八重は、菊之助が言うように、菊之助が寝起きする奥座敷の手前の座敷で寝起きすることになった。 「八重さんに伽を無理強いしたら、あたしたちが許しませんよっ。  約束の書き付けを書いてくださいね。約束を違えたら、皆で北町奉行所へ言いつけますよお」  加代は八重の身を案じて、伽を無理強いさせぬ、と菊之助に確約させた。 「わかりましたよ。二人に約束の書き付けを書きますよ」  菊之助は加代の言い分をしたためた書き付けを、八重と加代に渡した。 「はい、八重さんとお加代に・・・。  御存じのように、私は八重さんに惚れています。  だけどね、八重さんには、本来の私を見て欲しいのです。  その上で、私に嫁ぐか否か、決めてくださいまし」  菊之助の事実上の求婚だった。加代は、してやったりと笑顔だ。ここまで考えて書き付けを書かせたお加代は只者ではない・・・。八重はそう思った。
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