五 再会

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五 再会

 それから、四年目。  八重が十八歳の弥生(三月)二十日。昼四ツ(午前十時)。  快晴のこの日。日本橋元大工町の指物師仲間と大工仲間の恒例の催しで、八重と源助は上野の東叡山寛永寺の門前にいた。  上野の東叡山寛永寺は徳川家の菩提寺で、上野の山全体を占める広大な境内に数多くの諸堂が建っていた。江戸初期の天台宗の僧で、東叡山寛永寺を創建した天海が桜を好み、吉野から桜を移植したことから、上野の山一帯は桜の名所となり、春には多くの花見客が訪れた。(出典:日本文化の入り口マガジン 和樂webより抜粋)  朝早くから花見の席取りをした大工仲間の効があり、日本橋元大工町の指物師と大工たちは、桜の樹と境内に出入りする花見客が良く見える、境内の頃合いの場所に花見の席を得ていた。 「父上。あちらに・・」  花見客を見廻る町方に見知った姿を見つけ、八重は門前で立ち止まって源助に示した。  花見の人波でごった返す境内は、喧嘩や強請、巾着切りなど犯罪が絶えない。そのため、花見の人波に紛れて悪事を働く者がいないか、町方が目を光らせていた。 「桜の梢の横を歩いて、会って参れ」  源助は八重の背丈を思って、梢が垂れ下がっていない桜の樹を示した。 「そうは言っても、お役目中です。邪魔になりますよ」 「忙しいお人だ。機会を逃せば次はないぞ」 「はあい。では・・・」  源助を境内の花見の席へ歩かせ、八重は人波とともに町方がいる方向へ歩いた。  与力の藤堂八郎は、桜の梢の下を歩く人波に見覚えがあった。日本橋元大工町の人たちである。  満開の桜の花で梢が垂れ下がり、今にも下を歩く人の髪に触れそうだ。いずれ髪を引っかける者がいるだろう。そう思っていると、上背のある女の髪が梢に触れた。  女の髪は乱れなかったが、キラリと光る物が梢に残った。簪である。女はその事に気づかぬまま、人波とともにその場を通り過ぎてこちらに歩いてくる。 「これ、待たれよ。簪が・・・」  八郎は歩いてゆき、梢に手を伸ばして簪の飾りを壊さぬように梢から簪を取り、呼び止めた女に渡した。  呼び止められた八重は、満面の笑顔で八郎を見つめた。 「ありがとうございます。八郎様」  憧れの八郎様が目の前にいる・・・。三年と十ヶ月ぶりの再会に八重の胸は高鳴った。  八重は、北町奉行所へ出入りする八郎を何かにつけて見ていた。八郎はいつも忙しく走りまわり、ゆっくり歩いている暇はない。八重は、長屋に立ち寄れぬ多忙の八郎をよく理解していた。 「八重さんではないかっ」  一瞬に八郎の顔が満面の笑顔になった。八郎は、初めて会った折に感じた八重の穏やかさと理知的な雰囲気を片時も忘れなかった。今、目の前にいる八重は歳月を経ても、面影は初めて会った折と変わっていない。顔だけ見ていると少女のような大きな目の童顔も、小さめの肩も、ちょっと大きめの尻も、以前のままに思えるが、八重の背は伸びて五尺七寸ほどかと思えた。顔だけ見ていると少女のようだが、容姿は女らしさが増している。巷の男は背丈のある女を嫌うが、大柄な八郎から見たら八重は小柄だ。 「八郎様はお役目ですね。御苦労様です」  八重は八郎の労を気遣って笑顔で御辞儀した。  斬殺死体や無頼漢にも動じない八郎も、この八重の笑顔には心を動かさぬわけにはゆかない。初めて会った折から、その感動は少しも変わっていない。 「人が増えれば犯罪が増える。休んでいる暇もない。野暮なお役目でな・・・。  親爺様は達者か」 「はい。長屋の皆さんとあちらに・・・」  八重は花見客の人波を指差した。人波の中に立ち止まって笑顔で八郎に御辞儀する者がいる。八重の父の源助だ。 「親爺様たちと花見でござるか」  源助の周りに、日本橋元大工町の大工の家族や指物師の家族がいる。八郎は、源助の眼差しが八重に何かを告げるように動いたのを見逃さなかった。 「しばらく見ぬうちに、八重さんは美しゅうなられた。女の色香が出てきた」  八郎は感じたままを素直に話した。この八重をいずれ妻にしたいと思い続けている八郎である。 「まあ、八郎様ったら・・・。でも、うれしい。  よろしかったら、ごいっしょにいかがですか」  八重は父たちの花見の席を示して八郎を誘った。八重は、八郎が八重を女として見ていることがうれしかった。八郎が八重を女として見ているのは最初に会った折からわかっていたが、こうして改めて告げられると、さらにうれしさが増した。 「有り難いがお役目中故、八重さんの気持ちはしかとここに受け止めました」  八郎は己の胸に手を当てた。八郎は同席したかった。八重とともに花見をできたら、この上ない喜びに違いなかったが、今は花見の人混みを見廻るお役目中である。のんびり酒を飲むなどできない。しかしながら八郎は、八重に再会できた喜びとうれしさを心から伝えたかった。 「そうですね。無理に誘って、上役さんに咎められては、八郎様が困りますものね」  今宵、長屋にいらっしゃってください」  八重は白い歯を見せて微笑み、頬をほんのり赤く染めた。八郎様の気持ちはわかっている。私に逢いたくても御役目が多忙で暇がない。私から誘わねば逢う機会は訪れぬ。 「お誘い、有り難く受けとめました。必ず長屋に伺います。  親爺様に、よろしく伝えてください。  さあ、皆に遅れぬよう、行きなされ。梢に気をつけよ」 「わかりました。必ず長屋にいらっしゃってください。  いつ会えるか、ずっと待っていたのです。八郎様も忙しい身の上。ちっとも長屋に寄ってくださりませんでした。八重はあれから三年十ヶ月の今日までずっと待ち続けました。  積もる話もございます。必ず、いらっしゃってください・・・」  八重は正直に心の内を述べた。 「思いは私とて同じです。片時も八重さんを忘れたことはない。  だが、何かと忙しい身なれば、いつも八重さんの長屋の横を歩きながら、八重さんに会いに行こうと思いつつ、会う機会がなかったのだ・・・。  相分かりました。今宵、必ず伺います」  八郎はお役目を切り上げて、すぐにも八重とともに花見に興じたかった。花見というより、八重とともに時を過ごしたかった。 「お待ちしています。必ずですよ」  八重は八郎の目を見つめた。八郎も八重の目を見つめかえした。 「わかった。遅くなっても、必ず伺います」 「はあい。お待ちしております。では、夕餉を用意してお待ちしています」 「必ず、伺います」  そう言う八郎に、八重は丁寧に御辞儀し、父たちがいる花見の席へ歩を進めた。  八郎は八重の姿を目で追いながら、周りの花見客の動きに目を走らせた。
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