七 二人の夕餉

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七 二人の夕餉

 夕七ツ半(午後五時)。 「久しぶりの逢瀬だ。今宵は朝まで心置きなく過ごせ。  私は花見の続きで大工や指物師の仲間と寄合所で飲む。そのまま寄合所に泊まるゆえ、私を気にせずによいぞ」 「はあい」  弥生(三月)二十日と言えど夜は冷える。日本橋元大工町の長屋で、源助は寄合所に泊まる仕度をした。源助は納得ずくだ。八重と八郎の仲を認めている。 「では、行ってくる」 「気をつけて、行ってらっしゃいませ」  八重は、日本橋元大工町二丁目の寄合所へ出かける源助を見送った。  その後。  八重は夕餉を整えた。酒も用意した。久々に八郎と過ごせると思うと、八重の心は春の陽溜りにいるように和んで暖かくなった。  暮れ六ツ(午後六時)。 「今宵は招いて頂き、有り難うにござる。これを・・・」  八郎は日本橋元大工町の八重の長屋を訪れた。八重への思いが募り、八郎の胸の鼓動は高鳴っている。八郎は胸の高鳴りを押さえ、手土産の角樽の酒と肴を、土間に立つ八重に渡した。 「八重さんが好きだと話していた、島田屋の蒲鉾と肴だ」  八重に初めて会ってこの長屋に上がったあの日、八重の好みは聞いている。  八重の手が八郎の手に触れた。八郎の鼓動がさらに高鳴った。 「覚えていてくださったのですね」  八重は嬉しかった。私が片時も八郎様を忘れなかったように、八郎様も私のことを忘れなかった・・・。 「八重さんの事は何事も忘れぬ・・・」  八郎は八重を片時も忘れなかった。 「さあ、お上がりください」  八重は笑顔で八郎を見つめている。 「はい」  八郎は六畳の畳の間に上がって刀(打刀と脇差)を畳に置き、座布団に座って気持ちを落ち着かせた。八重は武家の作法で刀を手に取り、床の間に置いた。  五年前。仙台伊達家は冷害による飢饉のため、仙台伊達家による現物支給や資金調達が限界を超えた時期があった。仙台伊達家の財政悪化に苦しんだ藩主は、藩士が町人になるのを許可した。藩士の口減らしだ。  その翌年。仙台伊達家家臣から町人になって江戸へ出た佐藤源之介改め源助は、指物師として娘の八重とともに日本橋元大工町の長屋で暮らしていた。  源助には妻の奈緒と次女の多恵がいたが、江戸に出てきた早々、二人は江戸の水が合わぬと言って三女の佐恵の養父、親戚の木村玄太郎を頼って仙台に戻っていた。八郎はその事を知る由もなかった。 「夕餉を用意しました。お酒を用意しましたが、頂いたお酒の燗をつけますね」  八重は土間の流しで角樽の酒を数本の銚子に注いで、竃の羽釜の湯で銚子の酒に燗をつけ、蒲鉾を切って肴とともに皿に載せ、夕餉の膳に添えた。 「蒲鉾も肴も、おいしそうだこと」  八郎様の妻なら、いつもこんな風に夕餉を仕度しながら八郎様と話すのだろう・・・。 「親爺様はどうした。いっしょに飲みたいと思っていたのだが」  八郎は、八重を妻にしたい、と八重の父の源助に話すつもりでいた。こうして八重が毎日夕餉を用意する我家に帰宅できれば、どんなに幸せか・・・。 「今宵は花見の続きだと言って、寄合所で飲んでます。  何でも飲むきっかけにするのですよ。指物師仲間も大工仲間もとても仲がいいんです」  話しているあいだに、六畳の間に夕餉の膳が並んだ。 「さあ、お食べくださいな。お酒をどうぞ」  八重は八郎の膳の傍に正座し、銚子を取って八郎に酒を勧めた。 「すまぬな・・・」  八郎は盃を取った。八重は八郎の盃に酒を注いだ。 「頂きます。その前に・・・」  八郎は膳に盃を置いた。そして、八重の手から銚子を取って八重を膳に着かせた。 「八重さんも・・・」 「はい・・・」  八重は盃を持って八郎の前に差し伸べた。八郎は八重の盃に酒を注いだ。 「では、頂きます」  二人は酒を飲んで盃を膳に置いた。  八郎は箸を取って八重が作った菜を摘まんだ。 「この和え物は美味いっ」 「そう言っていただき嬉しゅうございます。蒲鉾、頂きますね」 「うむ、食べてくれ」  八重は蒲鉾を食べた。 「おいしゅうございます」 「八重さんも・・・」  八郎は箸を膳に置いて銚子を取った。 「はあい」  八重は箸を置いて盃を持ち、酒を注いでもらった。  八重と八郎は酒を酌み交わしながら語り、夕餉を食べた。
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