アナイスとアイリス

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アナイスとアイリス

 教会の鐘が鳴る。  長い音の後に短い音が響くそれは、鎮魂の鐘だ。  王都の街に敷かれた石畳をゆっくりと通る豪奢な馬車の中にも、それは嫌というほど響いてくる。  中に座る十歳の少女は、癖のない艶やかな黒髪をしていた。薄水色のドレスはふわりと裾が広がり、たっぷりと縫いつけられたレースが少女の家の財力を物語っている。  窓からは音の合間に、風に乗って男たちの話し声が聞こえてきた。 「聞いたか。ついに死んだらしいぞあの悪役が」 「ああ、あの悪役令嬢だろう。長かったな。あの事件から十年は経ったか?」  少女は形の良い眉をひそめた。  悪役令嬢と呼ばれる女性――「アイリス・エルダール」は稀代の悪女として庶民にまで蔑まれる存在だった。当時流行っていた逆転恋愛劇になぞられて悪役令嬢などと呼ばれだしたが、いまやその言葉自体が彼女を指す。  稀代の悪役令嬢。  最悪の悪女。  そう呼ばれた人間  ――くだらない。  馬車の中にまで聞こえてくる平民たちの噂話に、少女は年齢の割りに大人びたため息をついた。それは向かい合って座る過保護な兄に見咎められぬように、小さなものだった。  さっさと屋敷に帰りたい少女の気分とうらはらに、馬車はゆっくりとしか進まず、引き続き外の会話が耳に入る。 「あんな事件を起こして監禁で済ませたんだから、本当に第一王子はお優しい」  少女は奥歯を嚙みしめた。膝上で握る拳に力が籠る。意思の強そうな真っ黒な瞳にはあからさまな憎悪が宿るが誰もそれに気付かない。 (優しいですって? あの男が?) 手のひらに整えられた短い爪が食い込むが、少女は気にした様子もなく窓の外を睨みつけた。立ち並ぶ建物の奥にはこの国一番の教会が見えた。 「どうしたの、アナイス」  少女と同じ黒髪を揺らした青年がそう優しく声をかけると、少女は先ほどまでの表情を一瞬にして慈しみに溢れるものへと変化させた。 「なんでもありませんわお父様。鐘の音が大きいから何があったのかと思っていたの」  少女――アナイスからは十歳という年齢相応の、可憐で無垢な声が響いた。声だけではない。少女は真っ白な肌とバラ色の頬と、それを引き立てるように真っ黒な髪の毛と瞳は常に潤んで艶やかだ。大きな瞳に見つめられるとそれは大輪の花が咲いたように華やかで、父は思わず相好を崩す。  だがすぐにその表情は硬質なものに変わる。 「あの鐘は、鎮魂の鐘だ。王族や名のある貴族が亡くなった時に鳴る」 「まあ、そうですの」  アナイスは努めて穏やかに、十歳の少女らしく口元に手を当てて目を見開いた。 「それでは、お祈りをしなくては」  両手を胸の前で組もうとするアナイスを、伸びてきた兄の手が遮った。 「しなくていい」  きょとんとするアナイスに向かって、兄は困ったように眉をㇵの字に下げた。 「あれは先日、稀代の悪役令嬢が死んだ――その鐘の音だよ。第一王子の婚約者という立場にありながら、嫉妬に狂ってしまった可哀そうな娘だよ」 「そう、なんですの」  アナイスは戸惑ったような顔を作って、だがお互いそれ以上何も言わなかった。  はらわたが煮えくり返るとはこのことだろう。穏やかなアナイスの内側では地獄の業火のような激しい怒りが渦巻き、今にも表に噴出しかねないそれをこの十年で培ってきた理性で押し込んでいるだけだ。  自分の発言を後悔しているように視線を泳がせる父の目からは、何も知らない無垢なアナイスに見えるだろう。  父の発した言葉は半分正解で半分間違っている。  第一王子の婚約者でありながら、可哀そうな娘だったという事は正解だ。  だが悪役令嬢は嫉妬などしていない。本に埋もれ勉強に励み、第一王子の補佐をする覚悟だけで生きていたのだから。  それを知らずによくもまあ、好き勝手言ったものだとアナイスは怒りを逃すために詰めていた息を吐く。  今はまだ、誰も知らない。  アナイス・アーリクレッセこそが、稀代の悪役令嬢アイリス・エルダール、その生まれ変わりという事を。
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