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週末の日曜日。
僕はバスに乗って校歌の作者である染谷さんの家を訪れた。
「やあ、夕輝くんだね。いらっしゃい」
「こんにちは」
作者である染谷秀夫さんは御歳94歳になる。
祖父よりだいぶ年上の染谷さんは僕を見ると笑顔で迎えてくれた。
90歳を越えた今でも足取り軽く歩く姿は元気そうだ。
「突然校歌について聞きたいと生徒さんから電話がきて驚いたよ」
「急な話ですみません。発表会のテーマで校歌について調べていて、そしたら、祖父と僕や父との間に校歌の歌詞に違いがあって……なんで校歌が途中で変わったのか気になったんです」
僕は染谷さんに昨日祖父と交わした校歌の経緯を話す。
「……なるほど。時代を区切りに校歌の構成が変わってると。君のお祖父さんの代では校歌は四番まである。しかし、現在その四番は君たち世代の校歌の一番の歌詞となっており、当初の一番が消えてしまっている……、と」
「はい。本来の……消えた一番はどうしてなくなってしまったんですか」
「そうだな。あれは、……“変えざるを得ない理由”ができた、とでもいうべきか」
「変えざるを得ない理由?」
僕の問いに染谷さんは答えた。
「昔の一番に、『安らぎの木』という歌詞が出てくるのは知っているかね」
「はい」
「その安らぎの木でね……事故が起きたんだよ」
「事故?」
「生徒が死んだんだよ」
“安らぎの木”で事故が起きた?
染谷さんは当時の経緯を次のように語った。
A学校は戦争が終戦してまもなく新設された小学校だ。
小学校が創立される場所にもとから大きな一本の木があった。
この木を切るか話しあったところ、建設者たちは悠然と佇む巨木を戦後の復興のシンボルとして残すことになった。平和や安らぎを祈る願いを込めてこの木を“安らぎの木”と名付けた。
そして復興のシンボルは学校のシンボルとなり、安らぎの木は丈夫な太い枝が多く木登りができて生徒からも大人気だった。
ちなみに染谷さんは校歌を作詞した頃は工場に就職していて、幼少期も戦争が激しくなり学校に通えなかった。校歌もたまたま縁あって学校の創立関係者に才能を買われて制作に携わったという。
別の形で好きなことを通して学校に携われたことを幸福に思った。
染谷さんの顔に影が射す。
「人気な木だったからね。競争率が高かった。木登りするのはいつも決まって学校の乱暴者。ガキ大将だった。他の生徒は羨ましく木を眺めるだけになった」
ガキ大将か。
まるで勝吾みたいなやつだ。
今も昔も嫌なやつは変わらずいるんだな。
「事故というのはそのガキ大将が関連を?」
「いいや。いや、もとを正せばそうなのか……」
染谷さんは唸るように声をしぼる。
「事故の起きた年に教師から聞いた話だが」
当時カズキくんという小学四年生の男子生徒がいた。
例のガキ大将と同じクラスでカズキくんはガキ大将に競争やケンカでいつも負けていた。木登りもガキ大将のせいで登れなかった。
ある日、ガキ大将のいない隙を狙って早朝にカズキくんは運動場にひとりで来て木に登った。
しかし運悪く足を滑らせ木から落ちてしまった。
「……可哀想に教師が見つけたときは死んでいた」
なんとなくわかってきたぞ。
「亡くなったカズキくんを偲んで安らぎの木を伐採したってこと?」
「ああ。校歌は次の世代へ延々と歌い継がれるもの。いつまでも安らぎの木が歌詞として残るのはカズキくんが可哀想だ。残された生徒たちもな」
そっか。
だから事故が起きた年の以前以降で校歌に違いができたんだ。
そしてカズキくんが死亡する原因となった『安らぎの木』が入る本来の一番を消した。
なるほど。
学校の校歌にそんな隠された歴史があったなんて。
「切り株はまだ残ってるだろうな。なんせ大きな木だったからちょっとした低いテーブル……いや、あれはテーブルというよりは台だな」
台。
その言葉に僕は反応した。
いつも勝吾と僕が取り合ってるあの物置き。
もしかして。
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