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興味のない授業を受ける事で何時間も勉学に向き合うのは苦痛だ。
僕は、音楽室から戻り、化学の授業を受けていたが、教師の言っている事は全く耳に入って来ず、先程の清水の弾いた月光に思いを馳せていた。
切ない旋律から始まった演奏はその物悲しさに胸が詰まるような圧迫感のあるその演奏は、さまざまなピアニストの演奏を聴いてきた僕からしても、良い演奏だった。
何時間も注ぎ込んだ練習量を表す、洗礼された演奏でまさか、ベートーヴェンが好きではなかった人間の奏でる月光とは思えない演奏であり、僕は演奏を頭の中で思い返しながら清水の顔を思い返す。
(…ピアニスト…だよな?、そうだとすれば、何故…)
こんな所で教師をやっているのだろう、とそこまで考えて脳内に思い浮かべた清水の顔を振り払う。
そんなの、もうどうでも良い事だと思い授業に集中しようと黒板を見つめ教師の話す内容に耳を傾けようとするが、脳内に鳴り響く月光が邪魔をして上手くいかない。
思い返しては掻き消して、思い返しては掻き消してを何度も繰り返し四苦八苦している内に、疲れて辟易とさせられて、首を小さく振っていたその時、左から一枚の紙が机の上に置かれて、カサカサと乾いた音を立てた。
(……………何?)
その紙を渡して来た左横を振り向くと、そこには頬杖をついて此方を見つめている芦家がいて、僕は芦家と目を合わせると、芦家はその紙を見るよう目配せをして来た為、僕は怪訝に思いながら、その紙を手に取る。
(………………日曜日に10時からに、遊びにいこうぜ?集合場所は…横浜公園?)
そこに書かれていた文字を読んで、僕は芦家の方に目を向けると芦家は此方を見て、まるで夏の真っ青な空の如く爽やかに笑った。
そんな笑顔を向けられても、これは一体どういう事なんだと、芦屋を睨むがそんな事芦家は気にせずに授業を続ける教師の方に、向き直ってしまい僕が睨んでも、気にもしない。
全く、本当にこの男は何でも自分のペースに持っていってしまうのが腹が立つ。
授業が終わったら、絶対に行かないと言ってやろうと思って、黒板の前に立つ教師に向き合い、苛立ちのまま先程の演奏の事を忘れて僕は黒板に書かれた内容を、ノートに写していく。
そうこうしている内に、授業は終わり芦家に言ってやろうと向き直るが、芦家の周りにはすぐに人が集まってきて、話しかける事が難しくさせられており、しかも本人は部活があると言って颯爽と教室を出ていってしまった為、行かない旨を伝える事は出来なかった。
「……全く…」
仕方がないから明日言うしかない、と思ったがはたと明日は土曜日な事に気がついて、僕は手に持っていたノートを握りしめる。
(…どうしよう)
芦家の連絡先も知らないし、明日は休みだ、断ろうにも選択肢がない事に気がついて、僕はため息を吐いた。
全く、本当に芦屋が関わると面倒な事ばかりだ。
(……バスケ部に行って伝えるしかないか)
とりあえず、彼が行くと言っていた部活の方に行ってみようと思い立って僕はスクールカバンに荷物を押し込み、帰宅する生徒や部活に行く生徒達に紛れて、体育館へと向かう。
廊下は人が賑わい、この間吹奏楽部を見学しに行った時が嘘のように人で溢れ返っていていてバスケ部に向かっている生徒達が大多数のようだ。
(…ッ、強豪で人気があると聞いていたけど、こんなに…?)
何時も芦家と昼時に向かう、体育館とは全く違う姿に僕は戸惑った。
昇降口を降りて体育館に向かう渡り廊下も、人で溢れ返り中へと入っていく生徒達と渡り廊下や体育館の窓に張り付いて中を見つめている生徒の性別は、男女問わない様子で、中を見つめてそこに居た女子生徒の集まりが、黄色い歓声をいきなり上げて僕はその声に肩を跳ねた。
「芦家くんかっこいいーーっ!!」
「本当、その辺のアイドルとか顔良い…っ!!」
「しかもバスケも上手いとか本当ヤバいよね…!!」
「…うっせぇよな女子」
「でも、あの一年顔だけじゃなくてバスケ本気で上手いから、本当何も言えねぇよな…デケェし…」
「…芦家ってやつ、あれで性格もいいんだぞ…俺の弟、不良から絡まれてんの助けてもらったとか言ってたし」
「…神様って、不公平だよなぁ…」
どうも体育館の中に居る芦家への歓声だったらしく、黄色い声を上げて騒ぐ女子生徒達を横目で羨ましげに芦屋に対して、妬み嫉みを零すものの、叩く所が見当たらないのか僻む事はせず、芦家を認めるしかない男子生徒の様子を僕は少し離れた所で観察して、踵を返す。
こんな人で溢れ返り、芦家に注目が集まってる中で話す事など不可能だろうし、仮に芦家と話せたとしても、遊びの誘いを断るなんて事をこんな学年を問わず、人で溢れ返っている所で言ったらどうなるか、今以上に面倒な事になるのは明白だった為だ。
しかし、踵を返した先にいた人物と目があって僕はその事に更に辟易した。
艶やかな黒髪が肩で切り揃えられており、小作りな輪郭が女子らしさを際立たせている白石とそれを取り囲むように居たのは、数人の女子生徒だ。
「あれぇ、黒瀬くん…、こんな所で何してるの?まさか、バスケ部に入るの?」
「…いや、違うよ」
「あはっ、そうだよねっ!黒瀬くん運動苦手そうだし…やめといた方がいいよ、ここの練習すごい厳しいから」
「あ、もしかしてマネージャー希望とか?あー、でもマネージャーは先輩も多いしうちらも入ったから要らないって言ってたよ」
「…そう」
僕は彼女達を相手にするのは面倒で、その横を通り過ぎた時、小さく「陰キャの癖に調子乗ってるんだよ、アイツ」という白石の声が聞こえた。
冷たく刺々しい声色は芦家を前にしていた時の彼女とは全く違い、少し恐ろしさを感じさせる。
彼女にここまで嫌われるようになった要因は芦家を嫌っている事を伝えた時だ。白石はきっと芦家が好きなのだろう事に僕は漫然と気がついた。
僕は人を恋愛的な意味で好きになった事は無いから分からないが、音楽院の皆は恋というのは素晴らしいものだなんて言ってたけど、僕は白石の様子を見ると、恋とやらに振り回されていて浅はかな事をしていて、そんな素晴らしいものとは全く思えなくなっていた。
好きな女子のタイプなどを聞かれた事もあったけど特に思いつく事は無く、それを素直にクラスメイト達に伝えると、挙ってまだ恋愛感情を持った事がない僕に、ひっくり返る程驚いていたけど、そんなに驚かれる事なのが本当に不思議で首を傾げると、いつか、ヒカルにも分かる筈だよなんて諭されて、それに対してでも僕はピアノより大切だと思える事なんてない気がするよ、なんて返すとクラスメイト達は少し複雑そうな顔をしたのを思い出した。
どうしてそんな顔をするのか、僕は分からなくてまた首を傾げると、皆んなが優しく肩を叩いてくれて何だかよく分からなかったけど、その叩かれた肩に置かれた手が心地よく感じられたを、何故だか思い出す。
やっぱり僕は恋愛感情なんて持てそうにないよ、と音楽を共に学んでいたクラスメイト達の姿を思い浮かべながら、僕は下駄箱へと向かい靴を履き替える。
外に出て学校の門を潜り、アスファルトの地面を踏み締めてため息を吐く。どうしようもなくて、帰路についたけれど現状は何も解決していない事を実感していた。
学校で芦屋の部活が終わるのを待つ選択肢もあったが、白石辺りにまた芦家に付き纏っているなんて思われるのは嫌だったし、強豪のバスケ部の練習がいつ終わるのかも分からなかった為、早々に諦めてしまった。
(……どうしよう)
人が疎に帰る通学路を歩いて、何か良い案は無いかと考えるがそんなのは全く何も思いつかず、家に帰ってからも何も思いつく事は無く、祖母が用意していた里芋の煮っ転がしときんぴらごぼうとマグロの刺身を頂いて、風呂入ってる間も悶々と考えていたし、何ならベッドに潜り込むまで考えていたが、どう考えても何も思いつかない為、電気を消した部屋の中、僕は漸く思考を放棄した。
(もう、いい……、日曜日、直接その場所に行って伝えてやる…)
そもそもそんな約束は勝手にされた事なんだし、無視してしまおうかと一瞬思ったけど、流石にそれはバツが悪かった。芦家の事なんて微塵も好意的に思えないけど、彼は僕のせいで怪我をして車に轢かれかけた僕を助けたのに、いくら何でもそれは良くない気がしたのだ。
そこで導き出した答えは、日曜日の10時に横浜公園に行ってその勝手に成された約束を断ろうと考え、僕は毛布に包まり目を閉じる。
本当に芦家には振り回されてばかりで、迷惑で堪らないと思って僕は枕に頭を擦りつけた。
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