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②
私は主人の喜ぶ姿が見たいのが半分、私の夢の実現が半分という気持ちで主人の言葉に甘える事にした。2年間の調理師専門学校に通い、卒業と同時に調理師免許を取得した。入学前、最初から卒業すれば免許が貰える学校を選んだのだ。
学費は20代の頃から、私の為に主人が密かに貯めていた貯金で充分賄えた。最初にそれを告げられた時、私は腰を抜かしそうになるほど驚いたものだ。私の為にそのような事までしてくれていたなんて、改めて惚れ直した程だった。
そんな思いやりのある主人ではあったが、
次女が高校3年の時、3代続いた左官業の会社をたたんだ。
細々と続ける事も出来なくはなかったけれど、
長男は他県で就職したし、長女は美容師の専門学校をアルバイトをしながら通い、次女は来年高校を卒業するという事で、貯蓄はさほどある訳ではなかったが頃合いだと主人は感じたらしかった。
肉体的にも慢性の腰痛で苦しんでおり、主人の身体の事を考えれば良かったと思う。それに主人が決めた事に私に口出しするつもりもなかった。
振り返れば、確かにあの時がタイミング的にも良い時期だったのだろう。
私が40歳で主人が43歳の時、次女が高校を卒業し、これで3人の子供全員が完全に私達夫婦の手から離れた事となった。
1人、2人、3人と家からいなくなると、私達夫婦は2人だけの時間をゆっくりと過ごすようになった。日帰りで温泉旅行へ行ったり、2泊3日で京都や博多へ行ったりもした。そんな旅行中のある時、主人から私へとある話が持ち上がった。
それは私が店を出すのはどうか?という提案だった。
「せっかく免許を持っているんだから、定食屋でもやってみればいいんじゃないか?」
3人の子供は反対する事なく、皆が皆、主人の提案に乗り気だった。
けれどその提案を私は断った。料理を作るのは大好きだし、食べて美味しいと言って貰える事は何事にも変え難い喜びでもあった。
自信がないわけではない。ただ、やるなら家族皆んなで定食屋を営んでみたかった。
私が叔母さんから教わったように2人の娘達に料理を教えてあげたかっし、それが不可能ならば定食屋をやる理由など私の中には存在していなかった。
私の考えに主人も子供達も納得はしてくれた。
長女も次女も今はやりたい事に向かっている最中だったし、それは長男も同じだった。だから私の夢で3人の邪魔をするつもりはなかった。
美容師になりたいという長女の夢は昔から変わらず、その為にインターンで頑張っていた。
長男と次女の2人も夢がある事は昔から聞き及んでいたけれど、2人は内容までは教えてくれなかった。
「夢は言葉にする事で叶えられるものなのよ」
「目標を明確にするって意味合いだろ?そんな事わかってるから。だから一々、言葉にする必要はないから」
長男の言葉に次女も頷いた。
「お父さんやお母さんだって2人の夢の為に力になれることだってあると思うよ」
「その時が来たらお願いするからさ。けど今は自分の力で挑戦してみたいんだ」
誰に似たのか、私達の大切な3人の子供達は、親が想う事以上の速さでいつの間にか立派に成長していたようだった。
だから私1人の夢の為に定食屋を出すという事は、やはりあり得なかった。
私が断った事に主人も感じる所があったのかも知れない。店舗を出す事になれば、資金も必要になる。私がその資金の事で2の足を踏んでいると主人は考えたのだろう。そこには左官業も潰してしまった負い目もあったに違いない。
「夢だったんだろう?」
「私の夢は調理師になる事だったのよ。それは貴方が叶えてくれたじゃない?定食屋は確かにやってみたいけど、家族と一緒じゃなきゃやる意味はないわ。お店なんて夢の付随品みたいな物だから」
私の言葉に主人は少しばかり寂しそうな表情を浮かべた。主人は優しい人だから、子育てを終えた私の事を何よりも優先させたかったのだろう。
主人の気持ちを考えれば、店を持つというのも良かったのかも知れない。けれど主人の言葉でも、私の気持ちは変わる事はなかった。
そんなある日、職安通いを始めていた主人がある仕事募集のチラシを持って帰って来た。
地方ではあるが、その内容はとある大学の寮の寮長と寮母の募集チラシだった。
「これなら調理師免許も生かせるし、俺も設備なら、そこそこ知識もある。研修もあるから良いんじゃないか?」
確かに、子供達は手が掛からなくなった。けれど皆んな家から出て行ってしまい、寂しいというのが本音だった。でも知らない土地で他人様のお子様を預かるのは多少の不安もあったが、それ以上に楽しそうという気持ちが強かった。
「けど、この家はどうするの?」
「娘、2人が使えば良いじゃないか。安月給の中で仕事して家賃を払うのは大変だろ」
名案と思った。けれどその名案も私達がいたら、長女も次女も恐らくこの家には帰っては来ないだろう。
私達と一緒にいたくないから家を出た訳じゃないけれど、一緒に暮らせば親に対して甘えが出るというのを2人はわかっていた。
だから余程の事がない限り、私達が暮らす家に、2人して戻るとは思えなかった。
けれど問題は2人が承諾してくれるかどうかだった。私達にはわからなかった。家からだと職場まで遠くなるし、その分、電車通勤でストレスも溜まるかも知れない。主人は娘に相談してみると言った。
長女も次女も、主人の提案をありがとうとは言ったものの、答えは保留だった。
「1週間だけ待って」
長女はいい、次女は翌日、家に戻るよと言ってくれた。その次女が長女を説得したのだろう。1週間の筈が3日で答えを持って来た。
長女の答えは
「いいよ」
だった。
2人の返答は今まで金銭的に無理をしてきた事の
裏返しでもあった。娘の承諾を得ると話はとんとん拍子に進み、あっという間に私達夫婦は大学の寮長と寮母という立場の人間になった。
住まいは寮内の1階で間取りは2Kだった。2人暮らしなら充分な広さだ。
引越しの際、見学に来た長女と次女も、良いじゃんと口を揃えて言ってくれる程、綺麗な部屋だった。建物自体もまだ新しく、5年も経っていないそうだ。寮の周りは、自然に囲まれたとても閑静な場所だった。そのような場所である為、稀に畑で取れた野菜をお裾分けしてくれる農家の方もいらっしゃるという。
私達が入寮したのは3月半ばだった。季節は春で、もうすぐ寮に新入生が入って来る。渡された名簿を見る限り、比率的に男子3割女子7割という具合だった。
明日の朝から仕事始めという前日に私達夫婦は各部屋の学生達へご挨拶をし向かった。名簿は貰っていたけれど、顔を知らなければ間違えて名前を呼んでしまう可能性もある。今後の為にもそれだけは避けておきたかった。
私達夫婦も住み慣れた町から遠く離れた土地での一年生なので、同じような学生達は皆、我が子のように接してあげたかった。
お節介は嫌われる時代にあっても、やはり親元から離れて暮らせば寂しさも募り、眠れない夜を過ごす事もあるかも知れない。
せっかく寮に入ったのであれば、楽しい学生生活を送って欲しいと思う。何なら恋バナだって聞いてあげたい。夕食の時にでもそのような話が出来れば気も紛れ寂しさも軽減出来る筈だ。
親密とまでいかなくとも、私は全ての寮生に親身になってあげたいと心からそう感じていた。
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