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⑥
ゴールデンウィークに入ったからとはいえ、私達夫婦はそこまでのんびりとはしていられなかった。何もせず、も有りと言えば有りだけど、休み気分に浸り過ぎるとそれこそゴールデンウィーク明けに忙しい目に遭うの自分達だった。
雨が降らない日が続き、空気も乾燥していた。
寮の周りに生えた草は気温の高さにより、成長し続けているし、このような土地にあっても黄砂はイラつく程に飛散していた。
各部屋に洗濯機置き場もあるが、中には洗濯機を持っていない寮生達もいるので、そのような寮生の為に4台設置してある洗濯機場でさえ、水を使わないと排水溝から嫌な臭いも上がって来たりする。なので短期間ではあるが、自分達で使用する事にした。
なんだかんだで色々とやる事はあったりするので、性格上、ほったらかしには出来なかった。
それでも連休という事もあり、普段とは違い時間の流れがゆっくりと感じられた。時間に追われていない分、穏やかに過ごす事が出来る。
そんなペースで、雑事に取り掛かれるのは大型連休の良さでもあった。
会社からは何もやる必要はないと言われていたけれど、家にいてもする事がないので、私も主人もなんだかんだで身体を使う作業に精を出した。
翌朝、早い時間に目が覚めた。顔を洗っていると目の周りが赤く腫れぼったくなっている。虫刺されの時のように、ポツポツと突起状の斑点が出でいた。何か変なものに触れた手で目の周りを触ったのかしら。そんな事を思いながら顔を拭き眼鏡をかけた。ジャージにトレーナーを着て、日差し避けに帽子を被る。近所を散歩でもしてみようと思った。
正面玄関を出ると、こちらに向かって来る人があった。私を見て手を振る。近くの農家の方だった。名前は確か、三好だったか。
私は三好さんが持って来たもぎたてのトマトを受け取った。実がしっかり詰まった艶のよいトマトが太陽の光を浴びて、輝いて見えた。
籠一杯に入ったトマトを私はありがたく頂く事にした。
こんなに沢山ものトマトを、腐らせずどう処理すれば良いのだろう。ゴールデンウィーク期間で は食堂で料理を提供する事は無いので、寮生達の朝食や夕食にトマト料理を振る舞う事すら出来ない。
「主人と2人でトマトパーティでもやろうかしら」
私は一旦、厨房へとトマトを運ぶ事にした。
厨房の床は水で濡れており、淡い洗剤の匂いが鼻をつく。主人が掃除を終わらせてくれたようだ。
厨房専用の靴に履き替えトマトを冷蔵庫に運ぼうとして私は思わず足を滑らせた。慌ててトマトが入った籠をキッチンスペースへ置いたが、私は綺麗に足を滑らせた。
咄嗟に身体が反応して私は両腕で顔を挟むように守った。軽やかに尻餅をつき顔から腕が離れ眼鏡が外れ床に落ちた。
痛ぁぁと言いながら起き上がる。ぼんやりとした霞がかかったような世界の中で、私は僅かに見える厨房の床の上を手探りしながら、眼鏡を探した。
眼鏡は足下に転がっていた。レンズにヒビが入ってしまったようだった。フレームを摘み、床から起き上がり、強かに打った尾てい骨を摩りながら、1人愚痴た。
もう。いくら何でも床、濡らし過ぎだって。
私は濡れた衣服のまま、トマトを冷蔵庫に入れ
その手で箒を持ち、玄関先へ向かった。掃き掃除をし始めた。
「おはよう御座います」
手を止め声のした方を振り向くとそこには、朝帰りだろう、穂乃果ちゃんらしき人物がこちらを向いていた。
「おはよう」
私の挨拶に穂乃果ちゃんは軽く頭を下げた。
「あ、穂乃果ちゃん?」
「はい?」
半信半疑だったがやっぱり穂乃果ちゃんだった。
穂乃果ちゃんは私が呼び止めたと思ったようで、彼女は足を止めた。既に私の側を通り過ぎている。
「そういえば、昨夜警察の人から電話があったわよ。至急連絡が欲しいって」
「警察、ですか?」
穂乃果ちゃんが怪訝な表情を浮かべた。
その表情を見て、私は何か起こったのか知っているのかしらと思った。
「うん。そうよ。因みに穂乃果ちゃん、いつ帰って来るか私はわからなかったから、警察署内の内線番号を書いた紙をポストに入れておいたからね。くれぐれも110番にかけちゃダメよ?」
私は笑ってみせた。
穂乃果ちゃんはありがとうございますと言った後、再び言葉を繋いだ。
「あ、おばさんどうしたんですか?」
そう言い、自分の目を指差した。
「あ。これ?今朝起きたらなんか腫れてて。ばい菌でも入ったのかしら」
おまけに眼鏡も壊したとあっては本当、自分が情け無い。
「ちゃんと連絡するのよ?」
穂乃果ちゃんは返事と愛想だけは良い。いつもお腹の中にいい知れぬ何かを隠し持っている、第一印象はそんな感じだった。
1カ月が経っても私の穂乃果像は変わらなかった。素直になって欲しいなと自室へ向かう穂乃果ちゃんの背中を見ながらそう思った。
壊れた眼鏡は明日、修理に出す事にした。主人はそんな眼鏡の事より私の腫れた目の事を心配し、病院に行こうとしつこかった。
「今日1日様子を見てみるから」
今日のノルマは午前中に終わらせる事が出来た。余った時間は、WOWOWのドラマを見ながら潰した。
お昼は2人でうどんを食べた。少し横になる。
30分くらい昼寝をしたら、随分と身体が楽になった気がした。家を出て厨房に行った。
近所に、住むお年寄りへ頂いだトマトや、2人ではとても食べきれない野菜を配ってあげようと思った。腐らせるよりはよっぽど良い。
私は籠にキャベツとナス、トマトとキュウリを乗せた。
その近所のお年寄りは片手が麻痺で何かと不自由をしていて、このままだと動物のように丸齧りするしかなくなる。私は包丁も持って行く事にした。浅漬けでも作ってあげよう。
寮を出ようとした時、再び、穂乃果ちゃんの姿を見かけた。
「穂乃果ちゃん!」
声が大き過ぎたのか、呼び止められた穂乃果ちゃんは、ビクッと動き、肩を強張らせた。
「警察に電話した?」
「はい」
「こんな事聞くべき事じゃないのだろうけど、何かあったのかしら?」
聞くべきじゃないと思ったが、どうしても黙ってていられなかった。
穂乃果ちゃんの口から起きた事の話を聞いて、私は絶句した。
「その連絡でした」
まさかだった。兄妹が事故死だなんて…そこまで壮絶な事だとは考えも及ばなかった。
「私は大丈夫ですから。警察からも両親と連絡を取るように言われてますし」
「あ、あ。そ、そう…」
私はそう言うのが精一杯だった。どんな言葉をかけてあげれば良いのかわからなかった。
その時、赤い色した物体が私の前を横切った。なんだろうと目を凝らす。ものすごい勢いでその赤い物が私目掛け突っ走って、違う。泳いで向かって来る。その姿を見た事はあった気がした。けれど、何処で見たのかは思い出せなかった。勢いは収まる所か、更に増して行った。
突然、それは身体の上下を反転させた。大きな口開け、私に迫って来る。怖いと思い、思わず自分の顔の前で手を払った。
「虫か何か居ました?」
穂乃果ちゃんが聞いて来た。
「さっきから変な物が見えるのよ」
「変な物?」
「そうなの。赤い色した魚、多分サメだと思うのだけど、私、今、目がこんなでしょ?だからそれが原因かと思うけど…」
ほんの数センチ穂乃果ちゃんが、私から離れたように感じた。
「さっきからその赤いサメが、暴れてるように見えちゃって」
「眼鏡はどうされたんですか?」
「今朝頂いたトマトを冷蔵庫にしまおうとして転んじゃってね。その時、落としちゃってレンズにヒビが入ってしまったの」
「そうなんですか?大変ですね。早く新しい眼鏡買わないと」
穂乃果ちゃんが何か言っている。けれど赤いそれが、いやサメだ。間違いない。赤いサメが直ぐ目の前に迫って来る。その圧力は私を怖がらせるに充分過ぎた。
「そ、そうね」
何とか返事は返した。が、赤いサメは巨大な口を開き、今にも私を食い殺しそうな勢いだった。
私を殺そうといきなり速度を上げた。
このままじゃ、私はサメに、赤いサメに殺されてしまうかも知れなかった。
サメは開けていた口を閉じた。赤いサメの口から血が流れ落ちる。何かを喰らったのかと思った。その一瞬、赤いサメは姿を消えた。
だが再び現れた赤いサメは身体をくねらせ始めた。背鰭、胸鰭、腹鰭、尾鰭、背鰭がぐにゃりと変化し始めた。軟体生物のように動き、そこから手足が生え出した。泳ぐ事は止め、今では私の正面に2足で立っていた。何処からか声が聞こえた。
その時、私はマリカの言葉を思い出した。
「余分な物が見えてしまうから、眼鏡は外さないよう気をつけてください」と。私は手遅れな気がした。
が、その時、視界の隅が籠の上に置いていた包丁を捉えた。私はすかさず野菜の入った籠を地べたに置き包丁を握り締める。
「野菜、食べない?」
こんな言葉で、赤いサメの気を逸らせると本気で思った訳ではなかった。だが危険が迫っているのだ。やるしかなかった。私が赤いサメに食べられ死んでしまったら主人や子供達が悲しむ。泣かせたくなかった。
「いえ。部屋で料理出来ないから」
うるさいうるさい黙って受け取れば良いの!
「遠慮しないで、ね?ほら」
私は赤いサメをこちらへ呼び込む為に手招きをした。
だが赤いサメは籠の前にしゃがみ、トマトを1つ手に取った。
「これ、頂きますね」
仕方ないなという風に赤いサメが言う。
チャンスだと私は感じた。
そして私は赤いサメの顔の前へ包丁を持ち上げてみせた。
私を襲おうとしていた赤いサメが尻餅をついた。
奇襲は成功だった。だが油断したら駄目だ。
「これ。さっき届いたばかりの包丁なんだけどね、新しい刃物って、最初に試し切りっていうのをやるじゃない?」
「あ、はい?そうなんですか?」
いいながら、赤いサメは私との距離を測る。
赤いサメは腰を上げお尻を払った。立ち上がる。
大きく口を開け、私を威嚇する。
恐れず歯を食いしばった。
「でも、試し刺しってのは聞いたことないでしょ?」
こいつは殺さなければならない。余計な物だからだ。マリカも気をつけてと忠告してくれていたじゃないか。
言葉によって私が包丁を持っていると言う意識を遠ざけようと、私は包丁は背中の後ろへ隠した。
「え?」
赤いサメが、そのように口を開くと同時に、私は一歩、前に出た。隠した包丁をサメの喉元へ向けて突き上げた。
手応えはなかった。だから包丁を直ぐに引き抜いた。それが良かったのか、赤いサメの傷口から血が噴き出していく。
サメが握っていたトマトが手から溢れ、地面を転がった。
サメは傷口を押さえようと踠きながら、トマトの方へと視線を向けた。
赤いサメに奪われる前に私はトマトに飛びつき、それを、拾い上げた。
飛び散ったサメの血液を浴びたトマトが私の手に収まった。
私はそれを口に運び真っ赤に熟れたトマトに齧り付いた。
「どうし、て…」
赤いサメが、その大きな体躯を揺らしながら崩れ落ちた。私は足元に横たわる赤いサメに冷たい眼差しを向けた。
指の隙間から流れ落ちる赤いサメの血は、
私が齧るトマトの果肉よりも赤かった。
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