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私達夫婦の転機が訪れたのは、長男と長女、次女の3人が立派な社会人になった時だった。 丁度その頃、突然、主人が体調不良を訴え病院で診察を受けたら脳梗塞という事だった。幸いな事に発症して数時間しか経っておらず、緊急の薬剤投与治療のみで命を繋ぐ事が出来た。後遺症もなく、それまでと同じような生活に戻る事が出来たが、私と主人にとっては只事でなく、その病気が起きた事で私達夫婦にある決断をさせたのだった。 私達夫婦は若くして結婚した。当時、主人は22歳で私は19歳だった。結婚して直ぐに長男を授かった。その1年後には長女を2年後に次女を授かった。 主人との出会いはとある食堂での事だった。その食堂は私の叔母が1人で切り盛りしており、高校卒業後、就職をしなかった私に親が手伝うように勧めた事から、私はその食堂を手伝う事になった。 就職をしなかったのは私にやりたい事があったからで、夢は料理人になる事だった。 卒業と同時に専門学校へ通いたかったが、所謂、私の実家には私を通わせられる程の、経済的余裕がなかった。 なので高校卒業と同時に私は無職になった。本来であれば就職するのが普通の考えなのだろうけど、私は就職したら調理師になれないし、就職する事で他の仕事に時間を取られたくなかった。 今、思えばやる気さえあれば、就職しても出来ない訳でない事くらいわかっているけれど、当時の私はそのような柔軟な考えを持ち合わせていなかった。若気の至りと言ってしまえばそうなのだけど、単に世間知らずなだけだった。 なので当然のように、料理の勉強の為に料亭や高級レストランで働く事も考えなかった。 それに私はそのような場所が好きではなかった。 私の目には、気取っている、単なるカッコつけとしか映らなかったのだ。 それよりも和気あいあいとした雰囲気で食事を楽しめるそんな場所が好きだった。だから叔母さんの食堂で働いてはどう?という親の勧めは渡りに船だった。 食堂であれば私が望んでいる場所だ、と思った。おまけに叔母は私が幼い頃から料理の楽しさを教えてくれた人であり、私がその道を目指すきっかけを作ってくれた人だった。 でも、思春期を迎えた頃から、私達家族と叔母は、疎遠になっていたので、今更合わせる顔はないじゃんない?と親に言った程だった。 疎遠になった理由は叔母の旦那の事が原因だった。私の両親をそそのかし保証人に仕立て多額の借金をこさえ夜逃げしてしまったのだ。それが発覚してからは私達家族の空気感も澱み始めた。 保証人になったからには借金の支払いは当然、私達家族の義務となった。生活は一変した。両親は貯金を叩き、父の実家である一軒家も売り払った。私達はワンルームのアパートに引越し、3人で並んで寝るような生活へと転がり落ちて行った。 両親は思春期を迎えた私を気遣い、段ボールとベニヤ板で部屋を区切り、1つは私の部屋、もう半分は2人の部屋として使うようになった。TVはどうしても観たい物がない限り、つける事はしなかった。そのようにしたのは私の勉強の邪魔にならないようにと母が気遣っての事だった。 そのような切り詰めた生活をしていても、中々借金減らず母はパートを掛け持ちするようになり、父は休みの日に日雇いのバイトをするようになった。 約6年間、私達家族はそのような生活を送らざる終えなかった。その間、叔母は幾度なく謝罪をしに家へと来たが、父も母も会おうとはしなかった。 「顔を見たら殺してしまいそうだ」 借金が無くなるまで口癖のように父が言っていた。それでもある程度返済の目処がついたのが、私の高校卒業と同時期だった。 両親は私に進学させてやれない事を悔やみ、涙ながらに謝って来た。そもそも進学するつもりはなかったから、2人の態度に私は戸惑いを隠せなかった。その時、初めて私は両親に調理師になりたいのと話した。 無職になってから数ヶ月、母は私のその言葉を覚えていたのだろう。突然、叔母の食堂の話を私に持って来たのだ。 当然だが、それには訳があった。後に知ることになったのだけれど、叔母が500万もの大金を両親に支払ったようなのだ。そのような話は、叔母が私にする筈もなく、私は両親の会話をたまたま耳にして、知る事が出来たのだった。 500万もの大金で私達家族が助かったのは言うまでもない。長年生活の拠点だった安アパートからマンションへ引っ越したのが、1つの表れだった。 それから直ぐに母から叔母の話が出て、私は2つ返事で承諾した。 そして働き初めて半年後に私は主人と出会い1年後に結婚した。主人は建設現場の作業員で実家の左官屋を手伝っていた。従業員は20名いかない典型的な中小企業ではあったがバブル期の到来もあり、仕事が山のように入って来ていた。 私達の結婚を反対する者はいなかった。両家に祝福され、新婚旅行はハワイにまで行かせて貰った。 その期間も主人は食堂を手伝う事を許してくれたが、長男を妊娠してからは、さすがに辞めろと口煩く言い出した。調理師になりたいという私の夢もわかった上で、主人は条件を提示して来た。 産まれる子供の手が掛からなくなれば、資格を取るも良し、専門学校にも通っていいと。 だが今だけはお腹の子供の為に食堂を止めて欲しいと私に懇願した。主人と出会ってからそのように強くお願いされるような事は一度もなかった為私は主人の申し出を受ける事にした。 けれど長男の次に長女、そして次女といった具合に年子だった為、私の調理師になる夢は、3人が高校生になるまでお預けとなった。 バブル期が終焉を迎えると主人の仕事にも翳りが見え始めた。私は子育てに忙しく、そちらの方は関わっていられなかった。社長となった主人は私の知らない所で相当な苦労をしたようで、それは年々減少していく従業員の数に比例していた。 喧嘩別れをした従業員もいれば、主人を慕い給料が下がっても残ってくれたベテランの職人さんもいた。私達が出会った頃には20名近くいた従業員も、長男が高校に入学する頃には4人まで減っていた。 「そもそも俺は社長の器じゃなかったんだよ。だから去って行かれるのも仕方がない。現実に他の左官屋でも忙しい会社は沢山あるわけだから、それを思うと、やはり俺に才覚がなかったとしか言いようがない」 記憶が定かではないけれど、確かその頃からだったと思う。主人が私の夢の実現の為に、調理師免許を取ってもいいと言い始めたのは。 「子供達は自立出来ているから大丈夫だ。今まで子育てで散々、苦労かけて来たから、遅くなったけどこれからは好きな事に時間を使って欲しい」
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