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「あのころは楽しくてあちこちに名前を書いたし、いちいち憶えていないわ」
「そのような御心のままでおられると、あっという間に食い物にされますよ。いいですか、保証人欄には決して名前を書いてはなりません。なにかを購入するときも気をつけてください。購入契約なんてしようものなら、死ぬまで送りつけられますよ」
「なにそれ、怖い」
「怖いのはあなたですよ。この状況に陥ってなお、その能天気さがいっそ羨ましいほどですね」
「ありがとう」
「褒めておりません」
ピシャリと楔を打つように言われ、リズベットは押し黙った。彼が自分の専属になって早十年、この執事にくちで勝てた試しがないのだ。なにかを言っても倍になって返ってくることはわかっている。沈黙は金、雄弁は銀と本で読んだ。
リズベットは本が好きだ。冒険譚から始まり、乙女心をくすぐるお姫様の物語も大好きだ。夢見がちだと笑うことなかれ。自分の意思での結婚などできない貴族令嬢からしてみれば、せめて物語の中でぐらい夢を見たいのである。
例えば、親に決められた婚約者と、傍にいて陰に日向に支えてくれる従者のあいだで恋心が揺れ動く物語とか。
そういったものに憧れたりもするわけである。自分の立場に重ねて。
彼が部屋に押しかけてきた理由はきっと婚約の話。この場合、婚約をするのではなく、婚約期間を延期しつつ、できればそのままフェードアウトできないかという目論見の話。
この考えをダグラスは反対していた。
反対理由がときめき方面に振れたものであれば心も騒ぐのだが、「お嬢様の有責ですので慰謝料も発生しますが支払いはできますか?」という現実的なものなので、リズベットの乙女心は崩壊寸前である。
(うちはもう風前の灯火なわけで、沈むことがわかりきっている船に乗り込ませるなんて、気の毒だと思うのよ)
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