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 布団にもぐり、枕元の目覚まし時計の秒針が動く音を聞いていると、やがていつもの歌声が耳に届いて来た。  細く頼りないのに楽しそうな声が、もう窓ガラス一枚隔てた向こうから聞こえてくる。肝心の詩は、まるで理解できないのに、知っている言語だとは理解できる。布団の中で耳を塞ぎ、マモルはじっと分厚い緑色のカーテンを睨みつけた。  マモル、マモル、遊ぼうよ。  まるでそう言っているような気がする。耳を塞いでも変わらず声が聞こえてくる。微動だにせず、マモルは声の聞こえる方向を凝視していた。  やがてふっと声が途切れた。いつもは聞こえている内に眠ってしまっていたから、初めてのことだった。諦めたんやろか。耳から手を離すと、歌声とは違う小さな音が鼓膜を打った。  とんとん。  脳裏に、子どものこぶしが窓ガラスを叩いている情景が浮かぶ。とんとん、ともう一度。小石や雨がぶつかる音ではない、間違いなく、誰かが窓を叩く音。  どっか行け。どっか行け。マモルは布団を握りしめ、心の中で繰り返す。おまえとは遊べん、はようどっか行ってくれ。  バンと大きな音が響き、マモルは身体を震わせた。こぶしでなく、平手で窓を叩く音。一つや二つでなく、いくつもの手のひらがバンバンと激しく叩いている。その衝撃に、カーテンがゆらゆらと揺れる。部屋で影が揺らめくのに気が付き、視線を上げた。天井から吊るされた彼岸花が風に吹かれるように揺れている。一輪は右に、一輪は左に、真っ赤な花はそれぞれ誰かに揺さぶられているようで、きゃはははとはしゃぐ幼い声がそこに被さった。  電灯がちかちかと明滅し、吊られた花が揺れ、笑い声と共に窓が破れそうなほどに叩かれる。教えられたお経を唱えることなど忘れ、マモルは目を閉じて掠れた悲鳴を上げた。  父ちゃん母ちゃん、誰か助けて!  ぴたりと全ての音が止み、マモルは強く塞いだ瞼を時間をかけてようよう開く。電気は消えているが、花が揺れている気配はない。子どもの笑い声も窓を叩く音も止んでいる。  その代わり、自分を呼ぶ声が聞こえた。 「マモル、もう大丈夫や」  祖母の少し枯れた声が、襖の向こうから聞こえてくる。聞き慣れた声に全身から緊張が抜け、「ばあちゃん」とマモルは祖母を呼んだ。 「朝になったん? 出てええの」 「大丈夫や」  ほっとして、這うように敷布団から出て、暗闇の中を手探りで進む。こちこちと時計の動く音が、しんとした部屋の中に響いている。  暗闇に僅かに目が慣れ、襖に手を掛けようとしたマモルは、ふとそれに気が付いた。  隅の小皿に盛られた塩が崩れている。三角錐の形状をしていた塩は、まるで水に溶けたようにべったりと小皿に垂れ、平べったくなっている。 「マモル、大丈夫や」  祖母の声に、マモルの背を冷たい汗が伝った。まるで祖母ではない化け物が、薄い襖を一枚隔てたそこにいる気がした。 「ばあちゃん……?」 「マモル、大丈夫や」 「そこにおるん」 「大丈夫や」 「ほんまに、ばあちゃんなんか」  そこで思い出した。大人たちは、朝が来たら部屋を出るようにと言った。外から迎えが来るとは誰一人言わなかった。もし朝に迎えに来てくれる手はずだとしたら、さっさと襖を開けてくれればいい。 「マモル、大丈夫や」  抑揚のない声が繰り返すのに、マモルは尻を落として必死に襖から遠ざかろうともがく。その気配に気づいたのか、祖母の声は違う言葉を発した。 「大丈夫やから、ここ開けえ」  ここにいるのは祖母ではない。祖母の声をした違うものだ。  カリカリと爪で襖を引っ掻く音が聞こえてくる。 「マモル、大丈夫や。マモル、大丈夫や。マモル、大丈夫大丈夫大丈夫や。マモル、マモルマモル大丈夫大丈大丈夫マモル」  バリバリと襖を引き裂く音に、マモルは気を失った。
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