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最近。毎週金曜日、仕事終わりに。この【kumogakure】に寄るのが男の日課になっている。
目的は、ただ家に帰る前に一杯飲んで日常から一時でも良いから解放されたかった、という理由。
━━最初の頃は。
◇◇◇
先日のある日。彼〈岡本 延末〉は、仕事でミスをしてしまった。
完璧主義の彼にとっては、屈辱以外何もなかったのだ。だが苛立つ気持ちのまま、家族が待っている家に持ち帰りたくなかったのが本音。
表参道を通って帰るのが日課だったが、気分転換にいつもと違う道を歩いていた時だ。
ふと、右側を見ると、━━ 一本道が出来ていた。
人一人分しか通れない路地裏の中の、路地裏な細道。この時の月夜の明かりが届かずの為か、先の道が見えない。
━━漆黒に塗りつぶされた壁、という言葉が正しいかもしれない。
一瞬。二十年前の少年時代のように冒険心が沸いたが、気味が悪さが勝ち、一歩踏み出した右足を引っ込めてしまう。共に、素通りにして立ち去ろうと考えを切り替えた。その時。
━━ ふわり……
突然の、柑橘系の香り。彼の鼻を掠める。透き通った爽やかな香りの中に、香ばしい甘露に似た花蜜の香り。
このレンガで建てられた壁沿いに囲まれている、この裏道に。
花屋、果物屋も無ければ。花、蜜柑などの柑橘植物も植えられていない。
━━のにも、関わらず。
沈殿していた甘さがゆっくりと浮上し、滑らかに酸味のあるフレッシュな香りと絡み合い、鼻腔内を撫でるように優しく触れる。
「……なんだ?この香り、どこからッ━━⁉」
この一言を発した刹那。肺に深く入り、脳にダイレクトにきた。
充満したエキゾチックな香りで、くらりと眩暈がし、此処を立ち去ろうとした判断が鈍る。
もう少し此処に居たいと言わんばかりに、足から根が張ったような感覚がじわりじわり、と足の裏に熱の根っこが広がっていく。
ここで、他にも〈ナニカ〉に気がつく。
(━━ッ⁉……潮の香り、か??)
純粋に何気なく、そう思った彼。
途端、先ほどの眩暈が強くなり焦点が定まらくなってしまう。立っていられるのが辛くなってしまった岡本は、その場で座り込んでしまった。
一分くらい経った時だろうか……。
男を苦しませていた突発性の眩暈が、急に綺麗さっぱり治まった。狐に悪戯されたような不可解に思いつつの彼。
ふと賑やかな声が、耳に入ってきた。
不思議に思った彼は、ゆっくりと瞼を開き声がする方向へ顔を上げる。
【バー kumogakure】と、記載された金のプレートが、真っ先に視界へ大きく入ってきた。
二重、三重とぼやけていた世界が、徐々に戻っていき安定した風景にひと段落つく。
戻ったのは、良いが。
━━先ほどと違う景色に変わり。更に彼の頭の中が混乱し、別の意味で眩暈を起こしそうになってしまいそうな、この一時。
「こんばんは~!旦那さん」
自身がうんぬんかんぬんと頭の中で状況整理しようと、自分の世界に没頭していた時のことだ。
若い女が目の前に、立っていた。
正確には、いつの間にか金のプレートをかけていた古びた扉が開かれていたのだ。
開かれたおかげか、先ほど小さく聞こえていた声がより鮮明になり、具体化される。
同時に扉の奥からは男と女のアダルティーな〈色の世界〉が広がり、瞳の奥に強い刺激が貫く。
唖然としている彼をよそに、すっ、と近づきしゃがみ同じ目線になる彼女。
逆光から見えているシルエットから、十代後半だろうか……。スレンダー骨格に凹凸の無い未熟な体つきが、今着ている水商売用の煌びやかなドレスに負けている。
大人の色気とは程遠いな、と岡本は素直に心の中で吐き出してしまう。
そんなことを露知らずの彼女は、
「旦那さん、そんなところに座っていると風邪ひきますよ?よかったら、わっちと一緒に飲みましょ!ね?」
屈託なく陽気に話を続けながら。岡本の腕を自身の腕と滑らかに絡ませると、胸元までウェーブがかったオレンジ寄りの茶髪が、さらりと彼の首元に流れるように揺れる。
シミの無い玉のような艶やかな肌が岡本の瞳のレンズにドアップに映し出される。幼さが残っているあどけない彼女から、ふわりと軽やかな花の香りがした。
自分好みの心地良い香りに、追加で愛くるしい子猫のような猫目で、じぃと見つめられたのが最後。
岡本は、心の蔵が鷲掴みされた感覚に落ちてしまった。
「ほら!行こうよ〜、旦那さん!!こうして、お店の前にいるより中で、わっちとお話ししましょうよ。ね?」
と、言われるがまま。尻もちついたままの状態から彼女から腕を引っ張られ、立ち上がらされる。
(まぁ……、気晴らしに一杯だけなら……)
その後、されるがまま二人で入店した。
これが今の店と初めて出会った、半年前の出来事である。
***
「ねえ~、岡本の旦那さん。わっちのこと好き?」
そして、現在に至る。
この店を偶然見つけてから。今宵も、毎週金曜日に〈あの路地裏〉へ足を運び、此処へ変わらず来ている。
初日から一か月後経って、変わったことが一つだけある。
〈此処へ来る〉、目的だ。
彼にとって、息抜きに酒を飲むのもそうだが。今は、目の前にいる女とこうして逢引きする日常も楽しみになっていた。
「ねえ~、わっちの話聞いてるの?」
一つのU字型の席で、互いを温め合うように密着しつつ。話を聞いていない相手に対して不貞腐れた表情で、岡本が左手に持っている空のロックグラスに、ウイスキーの瓶蓋を開ける。
中にある丸い氷へ滑らすように、黄金色をした西洋の酒をゆっくりと注ぐ〈わっち〉と今でも独特の言葉を発する女。
前に〈わっち〉の意味を聞いたら、北のお国言葉で〈私〉という意味らしい。
彼と頭一つ半くらい背の低い彼女。言動が子供っぽさが残る仕草に、愛くるしさが増し更にからかいたくなってしまう。
「あぁ、聞いているよ。〈雪〉。えーと、どうしたら指名を多くもらえるか、って話しだろ?」
「ーーッ!?ちーがーう!わっちは、そんな話ししてないやし!!旦那さんが来てくれるだけで満足って、この間言ったでしょ!?」
「ごめん、ごめん。雪のことが好きかどうかって話しだろ?ちゃんと、聞いていたよ。好きだからこうして会いにきているじゃないか〜!」
「……ッもう!旦那さんってイジワルね」
「だから、機嫌直しておくれ。ボトルをもう一本入れるからさ。な?お雪」
「うん!今回は特別に許してあ・げ・る♡ねぇねぇ、今飲んでいるウイスキーどう?美味しい??」
謝罪の言葉と、ボトルを新しく注文した事に満足したのか。向日葵のような満面な笑顔で咲かせる雪に、彼は安堵し胸を撫で下ろした。
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