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◇◇◇
「唄う……〈アレ〉、とは?なんだい、そんな抽象的なこと言われて答えられないよ」
「え~、それじゃあヒントをあげるね!ヒントは、━━」
それはそうだ、固有名詞があやふやで答えられる訳がないからだ。
俺、岡本 延末は隣に座っている〈雪〉とあの日、偶然出会った。最初は、気晴らしに酒を飲んで帰宅するのが日課だった。
今では、休日前の金曜日に足を運び彼女を指名している。
何回か通って行く内に、彼女のの飾りっけのない方言、太陽のような笑顔、何気ないしぐささえも、魅力的でいつの間にか惹かれていく俺が出来上がっていた。
この感情はたぶん━━、境界線を渡ってはいけないヤツだ。
だから、俺はこれからも彼女を〈推し〉として生きていこうと、これからも指名していこう決意した。
話は戻すが、指名料は発生する。店内の酒は、値が張る数か国の酒が取り扱っているのにも関わらず、思っていたのより手頃な値段だ。そのおかげか、毎回指名料込みでこの時間を楽しめるのだ。
この店の場所は、一杯で二百円。他の店だと四倍の値段になる。
なぜ、この単価で提供できるのか気になって。ある日、雪に聞いてみたところ、
「此処に来たお客さんたちは、〈オカミさん〉に選ばれた人たちだからだよ。だから、少しでも悔いの無い人生を楽しんでもらうようにって気持ちをこめたんだって」
と、三か月前に聞いた答えだった。
(オカミさん?……少しでも悔いの無い人生を楽しんでもらうように、とは??)
あの時は、ふと小さな違和感が湧いたが、理由が分からなかった俺は、その虫の知らせを静かに蓋をし現在まで雪に会いに来れている。
現在。こうして何事も無く生きているから、気のせいだったのだろう。
自分の世界に入って沈黙している俺に、痺れを切らしたのか。背伸びをし、ズイっと耳元に唇を寄せる。
相変わらず、予測不可能な彼女に困惑し身体が固まってしまう始末だ。
「旦那さん。歌う〈写真〉だ・よ」
「歌う……、写真?」
(そんな展示会、やって……いたか?)
聞いたことのない催しに、疑問の湧き水が生まれる。思わず首を傾げる中、そんなことをお構いなしにキラキラとした目でこちらを見てくる彼女。
瞳の奥から彗星の光の如く、期待に満ちた輝きで訴えて訴えてきたのだ。
「そう、写真だよ。ねえ、今から行ってみない?」
「い、今からかいッッ⁉」
「うん、そうだよ!その写真展ね、期間限定ですぐ近くでやっているんだって」
「いや!この時間には、もうやっていないだろう。また今度行こう、雪」
「大丈夫だよ。夜の時間限定だから。海外で流行っているライトアップっていう展示を取り淹れてたんだって!行こうよ~、岡本の旦那さん」
「う~ん、でもな~(そんな展示やっているなんて聞いたことないしなぁ)」
「近くの海でやっているんだって。すぐそこだから、観て帰ってくれば良いんじゃない?」
「え?海って……、あの埋め立て予定地の〈白浜海岸〉のことかい??」
「うん、そうだよ。今から行こうよ!ね?私、旦那さんとの思い出を作りたい!……迷惑、ですか?」
この最後のトドメと言わんばかりの涙の訴えに、俺は白旗を挙げてしまった。
目の前の相手は、よほど一緒に行きたかったんだろう。勢いに押されて小さく頷くと、いきなりこちらの左手を握ってきた。
そして、「行こう!」という言葉と共に立ち上がらせ、店の裏口らしいへの扉まで雪は俺の腕を絡ませながら引っ張られていく。
またもや、予想外の出来事にされるがままである。何故だか分からないが……、この時。
自身の頭の中で、━━警音が鳴り響いたような気がした。
彼女から香ってきた花の香りが鼻腔に擽り、警音なんかどうでもよくなった。
(この香りは、……思い出した!確か、ぷるめ……━━)
裏口の扉が開かれた瞬間。
「〈歌う写真〉たちに、気に入られると良いなぁ。旦那さん」
隣にいた雪からポツリと言った発言に、俺は理解ができず言葉が出てこなかった。
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