坂を下る前に

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 布団を見つめている。  外は雨。6月らしい湿気が部屋の中に満ち満ちている。布団の端に、黴が生えていた。最近は膝や肩が痛い。特にそれらの調子が悪い時に布団を床に置いていたままだった自分を、その黴は責めているような気がした。  だが、30分も布団を見つめたままでいるのは、別にその責めに苦しんでいるからではない。心の中をどんなに探し回っても、昨日までは確かにあった、強い思いが無くなってしまっていたからだ。  胡坐をかきすぎて体が節々痛み始める。仕方がない。私は諦めて、のろのろと立ち上がる。今日は上村君と会う用事もあるのだと奇跡的に思い出すことができた。危なかった。あんまりまごついていたら、遅刻になるところだ。  焼いていない食パン2枚という、最低限の朝食をとった後、身支度を整える。本当に面倒くさい。普段なら上村君と会うのに、そんな感情は抱かないのに、今日はやたらとだるく感じる。  ふと、本棚に目がいく。自分の意思で買った本がほとんどだが、上村君に勧められたり、時には渡されたりした本もちらほらある。  それらの背表紙を見ていると、何故か分からないが唐突に吐き気がしてくる。眩暈まで起き、仕舞いにはたたらを踏んだ。何なんだ、今日は。私はどうしてしまったというのだ。  身支度を思ったより早く終えることができたので、出発するまで少しばかり時間があった。そこで私は本棚に近寄り、本を数冊取り出す。駄目だ。表紙のタイトルを読むだけでくらくらしてしまう。  その数冊を本の小口の方が見えるように、つまりタイトルが読めないよう逆向きにもう一度本棚に差し込む。さしあたりはこうする他なかった。文字として読んでしまうと駄目なのなら、文字を見えなくする他ない。  他の本についても同じ処置をとっていく。その際、帯に書かれている文章もなるべく見ないようにした。ほんの1冊だけつい読んでしまったのだが、今度は頭が割れたのかと錯覚するほどの強い不快感を覚えた。  途中からは点けていたばかりの部屋の電気も消した。カーテンは閉めていて、なおかつ雨なので、それだけで文字が読みづらくなるほど部屋の中は薄暗くなる。おかげで作業を円滑に進められるようになった。何とか全ての本に対して処置を施し終わる。小口だけ見える歪な本棚を前にして、実に晴れ晴れとした気分になった。  一体何なのだろうか。  私は机の上に置いていたスマホを手に取り、ブラウザで今日の天気を調べる。雨。降水確率は80%。読める。特に不快感はない。  次にニュースサイトに遷移する。見出しは大量にあれど、特に眩暈は起きない。そのうちの1つ、遊園地に新しいアトラクションができたニュースをタップした。  世界で唯一のアトラクション。  年間パスの対象外。  しばらくは予約制で、チケットは遊園地の公式ホームページから。  これだけの情報を読み取るのに支障は全くなかった。文字そのものへの嫌悪ではないのは明らかだった。  時計を見る。自分の体調はそれなりに心配だが、流石にそろそろ出発しないといけない。でもその前に布団だけでも仕舞おう。今更何をやったって、布団はもう捨てるしかないのだが、物には心が宿るという。  もう捨てるしかないからと雑に扱えば、それこそ布団に恨まれそうだ。いや、黴させた段階でもう恨まれているのだろうけど。  押入れを開け、違和感に気付く。ぽたぽた、ぽたぽた、そんな音がした。まさかと思い、慌てて手に持ったままだったスマホをライト代わりに使う。 「ああ、面倒くせぇ…」  私は思わず若者のような言葉を使ってしまう。  押入れの中に雨漏りが起きていた。雨の粒が上段と中断を区切る板に落ちている。布団が黴ていた原因はこれもあったのだろう。今気づいたが、押入れの中も既に黴臭かった。  仕方がない、後で大家に伝えよう。  そう心に固く誓うが、いつ対応してくれるだろう、と漠然と不安になる。どの建設業者も人手不足、かつ、資材不足というニュースを昨日聞いたばかりだ。そうでなくとも、ここの大家はケチなのだ。  少なくとも今日は膝の痛みを気にしながら、押入れに布団を入れる意味がないのだ、と自分を慰め、玄関でスニーカーを履いた後、外に出る。ドアを開けるとそこそこの雨量だった。実に行きたくない。  1階まで階段で降りて、タブレット端末でドラマを観ている大家に雨漏りと既に黴が生えていることを伝え、外に出た。駅に向かって歩く。しばらくして傘が壊れていることに気がついた。穴が開いているわけでもない。骨が折れているわけでもない。ただ持ち手の部分に水が垂れてきた。防水加工が経年劣化で剥がれたのだろう。  鬱陶しさを感じながら、私も黴が生えてくるのかな、と冗談交じりに思う。もう生えているだろ、そんな声が耳に届いた気がした。慌てて後ろを振り返る。電信柱の後ろに誰かが立っていた。私が目を向けると、一瞬のうちにそいつは曲がり角の向こうに姿を消した。  ああ、またか。またあいつか。  最近会っていなかったので油断していた。あいつは、まだいたのか。 「おお、伊坂君。ここだ。こっちだ」  待ち合わせのカフェに到着すると、上村君は既に席についていて、私を手招きしている。  あまり大きな声で呼ばないでほしい。昔から理由がどうであれ、注目が集まるのは好きではない。傘をビニール袋に入れながら、私は席の方に向かう。 「久しぶり。1年ぶりぐらいかね」 「まあ、大体それぐらいだろうか。いやはや、この年齢になると時間の過ぎるのが早いこと早いこと」 「本当に。お互い年を取ってしまった」  そこそこに挨拶を交わした時、机に1本の杖がかけられているのに目がいった。上村君は私の視線の意味を正確に読み取る。 「いや、この杖はね。大したことはないんだ。ほら、僕がアルバイトで交通整理をしているのは知っているだろう。その時に歩道と車道を区切る段差部分で足首をひねってしまったんだ。全治1か月。その間、働きたくとも働くこともできない。いや、参るよ」 「それはまあ…養生なさってください」  ここの自分の分の料金、やはり出しましょうか。その言葉が喉元まで出かかってくるが、やめろと理性が告げてくる。口座の額を考えると、優しさを見せることはできなかった。そもそも呼んだのは上村君の方だ。  上村君はそんな私の心の内を読み取ったのかどうか、快活さを保ったまま話し続ける。 「本当に大したことはないんだ。杖があればとりあえずの生活に支障はない。まあ、神様が休めということなのだろう。この怪我をする前は、それなりに精力的に活動していたことだし」  話の筋が良くない方向に来ているな、と私は気づいた。ただ、10年ぐらい前から庶民にとっては贅沢品に変わりつつあるコーヒーをただで飲めるのだから、と自分を鼓舞する。  鼓舞した後で、強い虚しさに襲われる。時代の流れとは恐ろしいものだ。昔はガバガバ飲んでいたものを、滅多に飲めなくなっているのだから。あらゆるものを買い負けるようになった、自国通貨を改めて悲しく思う。自分たちを惨めさや貧しさから守ってくれていたかつての力は、今やもう見る影もなかった。まるで今日の雨漏りのように、生活のあちこちに惨めさが侵入してきている。  何にせよ、嫌なことはさっさと済ませてしまおう。上村君の話を嫌なものだと思うことなんて、今回が初めてだけれど。 「精力的に活動というと?」 「彼だよ。奥林議員」  やはりか。自分の眉間に皺が寄っていないか不安になった。コーヒーとケーキがテーブルに届けられる。こんな贅沢、何週間ぶりだろう。  上村君の言う活動の内容を聞き流しながら、私はコーヒーの香りと味をゆっくり楽しむ。次の選挙は天王山なんだ。売国奴のような議員が同じ選挙区から出ようとしている。これ以上、国を奴らに食い散らかされてたまるか。  正直、黙っていてほしい。そんな気持ちを表情に出さないのに、かなり苦労が必要だった。  ケーキの甘さに意識を集中させようと頑張っていると、隣の席に誰かが座る。目を向けてみると、高校生のカップルだった。  奥林議員に関する話よりかは興味が持てそうなので、目の端で2人を観察する。男子の方は少し頼りなさそうで、でも優しそうな子だった。女子の方は割と地味な子で、それでいて顔立ちは中々整っている。制服は最寄りの公立高校のもので、少し意外に思った。ありとあらゆる物価が高くなった現代、カフェデートなんて、裕福な家の子でない限り、おいそれと出来ないのに。 (相当格好つけているんだろうな)  何の悪意もなくそんな感想を抱く。微笑ましいものだ。  その後、そんな風に考えた自分に驚きを覚える。自分の人生にはこんな時間、欠片もなかったので、嫉妬を覚えてもおかしくないのだ。 「でだよ、伊坂君」  上村君がやや前のめりになって私に話しかけてきた。多分集中して聞いていないのがばれていて、冷汗が背中を伝った。 「私はこう思うんだよ。我々高齢者がこんなに頑張っているのに、最近の若いもんときたら、まるでやる気がない。先人が作ったものをまるで寄生虫のように蕩尽しているばかりだし、それだけならまだしも、現状に対する怒りすら見せようとしない」  自分が従事している政治活動に若い人が入ってこないのに苛立っているのだろう。だが、横に若いもんがいるのにそんな話しないでほしい。私は心の中でぼやいた。高校生カップルの方をちらりと見る。先ほどまでお喋りに花を咲かせていた2人だが、少し固まってしまっていた。 「投票権は16歳以上からあるのに、自分たちの貴重な一票が社会を動かせるものだと分かっていないから、投票率すら低い。全く社会へのただ乗りをしているとしか思えんよ」  やめろ。思わずそう怒鳴りそうになる。だが流石にそんなことをするわけにもいかない。私は指で上村君の手に少し触れる。上村君が怪訝な顔をしたので、視線で横の方を見るよう促す。上村君は横に座っている高校生カップルを見て、しかし、何も行動を変えなかった。  やれ、責任感がないだの、向上心がないだの、穀潰しだの、好き放題上村君は言い続ける。まるで痛めつけるのを狙っているかのようだった。  上村君の理不尽ともいえる言動に、徐々に横に座っているカップルの表情が変わってくる。上村君は、自分なりに計算はしているのだろうと思う。どこまでなら言っても殴られないかは、自分なりに年の功で計算しているはずだった。  だが、今日の私にはもう十分踏み込み過ぎているような発言のように思えた。仕方ないので、私は話題を変えるよう誘導することにする。 「時に上村君。奥林議員はまた何か本を著したのかい?」  以前上村君から彼の著作を1冊買ってほしいと頼まれて、実際に買ったことを思い出したので聞いてみる。今日帯文を読んで、強い不快感を覚えた書籍だった。 「ん? おおそうだ、そうだ。今日はそれについても話したかったんだ」  そう言って上村君は自分の荷物のリュックサックの中を漁り始める。カップル2人は立ち上がって、離れたところに座り直した。座り直した先でまた楽しく話し始めたのを見て、よかった、と心の底から思う。 「これだ、これだ」  そう言いながら上村君は1冊の本を取り出して、テーブルの上に置く。黒が基調で文字部分だけが白く着色されているその表紙を見た瞬間、私の顔から血の気がさっと引いた。  上村君が色々とその本について、話しているのが聞こえる。統計情報をたくさん載せて、反対者に何も言わせないよう、気を付けて作ったとのことだった。もう既に各地の本屋に配本されている。私を通して購入を希望してくれれば、奥林議員にサインもしてもらえる。  私はもうそれらの言葉に対して相槌を打つのも一苦労だった。吐き気を抑えるのが、かなり、辛い。ケーキもコーヒーも既に全て胃袋の中だ。吐いたら悲惨なことになる。  気持ちが、悪い。 「おい、どうした? 顔色が悪いぞ」  快調に喋り続けていた上村君が私の不調に気づいたのか、声をかけてくれる。私はこの気遣いを梃子にすることにした。 「すまない。少し気持ちが悪くなったみたいだ。今日はこれで失礼するよ。コーヒー、どうもありがとう」  私が言うと、上村君は送っていこうか、とか、タクシーを呼んでみたらどうか、と色々と気遣ってくれる。大丈夫、大丈夫、と私は適当に返答して、店を後にする。  退店した瞬間、気持ち悪さは綺麗さっぱり無くなった。  しばらく歩いた後、ほう、と息を吐く。その時、前の方から視線を感じた。慌ててそちらに目を向ける。あいつだ。あいつが歩道の真ん中に突っ立っている。だが、私が瞬きをすると同時に、彼はまたしても姿を消した。  なぜまた現れ始めたのかとても気になったが、私には今、確かめねばならないことがあった。しばらく歩いて、普段からよく使っている小さな本屋に到着し、入店する。  レジに立っている店員がこちらを見た。快く思われていない客であることは、その視線に宿った微かな感情から分かる。でも今はそんなことを気にする余裕はなかった。  脚はいつもの通りに動く、かと思いきや、とても重い。脳の方も、そっちに行きたくない、とがなり立てているような感じだ。でも問題の正確な切り分けのためにも、向かう必要がある。歯を食いしばりながら、周囲の客に不審に思われない程度に頑張って歩を進める。  いつものコーナー、政治に関する本棚の前に立つ。2日前にも来たばかりだ。ラインナップも変わっていない。何なら頭の中でどこに何の本があるか、完璧とは言えなくてもある程度思い出せるレベルだ。  変わったのは私の方だった。今までにない、激烈な眩暈に襲われる。近くの本棚の木の部分に手を置く。体重をそれに預けることで一時的に杖のようにする。ケーキとコーヒーを消化しきる前に来たことを、後悔することになるとは思わなかった。もし、ここで吐いたりしたら、店員に迷惑をかけてしまう。  無理やりその場で回れ右するようにして、何とか視界からその本棚を外す。そうすると時間はかかったが、気持ちも次第に落ち着いてきた。  もう大丈夫だ、と判断した時点でその本棚から本格的に離れる。  その後、しばらく店内をふらふらと歩いた。そうすることで、別のジャンルの本なら何冊視界に入れても大丈夫だと気づくことができる。  時代小説のコーナーに差し掛かったあたりで、自分があまりショックを受けていないこと自体にショックを受ける。 (あれらの本が読めなくなることを俺は望んでいた…?)  そんなはずはない。一瞬、目上の者に叱られた際に覚える、反抗心に近いものが湧いてきたが、それはすぐに萎えた。意固地になったところで、起きた事象は変わらない。間違いなく、自分は変わったのだ。その変化がいいものであるかどうかは、まだ分からないけれども。  そうじゃなかったら、偶然立ち寄っただけのコーナーで、これまで興味すら抱いてこなかった雲の写真集を手に取るなんてこともないはずだ。厚みのある表紙に触れる。ページをめくる。左のページに雲の写真が、右のページに解説が載っている。空をちゃんと観察したこともないくせに、大層面白く感じた。  何が面白いのか自問してみる。空を見上げるだけで美しいものがあると知るのは、凄いことだと思うから。そんな答えをさっと脳は出してくる。でも全くしっくり来なかった。安直すぎて、当然核心にたどり着いた実感もない。  多分、こういうものに興味を覚える時期なのだ。  因果の説明には全くなっていないけど、この感想で自分自身を納得させた。  どうしても今手に取っている写真集が欲しくなったので、値段を見る。流石に写真集は高くて、3000円もした。でもどうしても出せない金額ではない。明日からしばらく節約すれば、どうにか捻出できる金額だ。 (この本屋も偶には儲けさせてあげないとな)  迷ったが、最後はそう考えることで押し切った。手に取っている写真集をレジの方に持っていく。 「いらっしゃいませ。お預かりいたします」  女性店員が私の手から本を受け取る。スキャナーを手に取った店員の目の動きで、少しだけ驚かれたのが分かる。 「珍しいですね。写真集を買うなんて」  初めて店員に話しかけられて、私は少し戸惑う。だが冷静に考えると普段は立ち読みばかりしていて、しかも偶に買うとすれば怪しげな政治関連の本ばかりなので、不思議に思われるのも当然ではあった。 「ええ。何だかそんな気分でして」  しどろもどろになりながら応対する。そうですよね、そんな気分の時もありますよね。店員は1人で勝手に納得していた。 「自分で買っておいてなんですが、こういった本ってどれぐらい需要があるのでしょうか?」  金を払いながら聞いてみる。たかだか雲に3000円も払っている自分を未だに信じられない。でも自分以外に買う人間がいるからこそ店内に置いているのだと思うと、どれぐらい需要があるのかやはり気になってくる。  店員は金を受け取りお釣りを用意しながら、うーんと声に出して考え始める。困らせる質問だったのだろうか、と少し申し訳なさを覚えたが、数秒後、答えてくれた。 「毎日は売れませんけど、最近はそこそこ発注をかけてますね。あと私も何回かレジでこれとか、これと同じ感じの本を見ているのですが、結構高齢の方が買うことが多いような気がします」 「そうなんですか」  高齢。嫌な響きだった。自分ももう十分に高齢者で、気持ちだけは若いつもりでいたが、何だかそれすら老いたような気がする。  お釣りを受け取った後、外に出る。雨は弱まり始めていて、もう傘をしまっている人も多い。私は本を濡らしたくなかったので、傘を差す。小口しか見えない本棚に、これが1冊だけ背表紙を見せる形で存在しているのを考えると何だか気持ちが浮き立った。  背中に、またしても視線を感じた。  ああ、もう。何だよ。何なんだよ。  少しイラついた気持ちで後ろを振り返る。そいつは定食屋が道に置いている、ランチと書かれた旗の後ろに立っていた。すぐに隠れてしまう。でも今なら、追いつける気がした。何故かは分からなかったが、むしろ追いついて、具体的には分からないけど何かをしない限り、延々と今日はつきまとわれることが予感できる。  私は回れ右をし、人の間を縫うようにして、早足でそいつを追いかけ始めた。  角を右に折れ、左に折れ、時にはひたすらまっすぐ歩いたりし、いつの間にか来たこともないところにやってきていた。  先ほどから膝に微かな痛みが走っている。偶に走って無理やり追いつこうとしたせいだが、相手の方には若さという武器があった。私が必死の努力をして距離を僅かに縮めたとしても、ふうふう言っているうちに、相手も走り出し、私との距離をまた稼いだ。  だが、逆に私が疲れてゆっくり歩いたりすると、相手も速度を落としてきた。結果、どれだけ長い時間が経っても私とあいつの距離はほぼほぼ一定に保たれることになった。  くそっ、くそっ、くそっ。  まるで挑発のような相手の行動に、心中で何度も罵倒語を浴びせかける。この後に来ることが私には分かっていた。どこかのタイミングであいつは私から完全に離れる。どれだけ頑張っても、私は追いつけないのだ。  あいつが私の前に現れたのは30歳を過ぎたあたりで、その時から何度も追跡を行っているが、全て失敗に終わっている。  いつも全然距離を詰められないし、気が付いたら消えているのだ。  頭に血が昇っているのを感じていると、行き先の信号が赤になる。あいつが赤信号で引っかかった。私は残っている体力を振り絞って一気に加速する。だが駄目だ。これじゃ駄目なんだ。過去の経験から頭の冷静な部分はそう判断し、嘆きの悲鳴をあげた。  あと少しでその背中に触れられると思った瞬間に、パッとそいつの姿は消えた。左右を見る。畳んだ傘を持っている学生と、手押し車を使っている老婆がいるだけだ。今回も同じパターンか、危うく舌打ちしそうになる。  右折待ちをしていた大型トラックが信号を渡った先を見えなくしているが、私には確信があった。徐々にトラックが動く。それに合わせて向こう側の状態が見えるようになった。いた。あいつだ。信号を渡りきった先、10メートルぐらいの場所にぽつねんと背中を向けて立っていた。  進行方向の信号が青になる。私はまた追いかけ始める。同様にあいつも歩き始める。  全くいつもと同じパターンだったが、こんな理不尽な、圧倒的不利な状況にもかかわらず、諦めるという選択肢が出てこない自分が意外だった。普段なら、少なくとも心の方はとっくに諦めているからだ。  何かが変わろうとしている。その手ごたえだけはあり、ただでさえ長距離追跡でバクバク鳴っていた心臓が、期待と合わさってさらに鼓動を早くしていく。  追跡が数時間続いた頃、角を右に折れたところで、とてつもない坂にぶちあたった。  斜度の感覚をこの年になっても頭でつかみきれていないため、傾斜何パーセントという表現は出てこないが、膝がさらに痛くなりそうな坂という表現がぴったりあてはまる。坂をほんの数歩登ってみる。驚くほど体力を消耗した。  あいつはそんな坂をもうとっくに上りきっていた。上った先で今度は私に顔を見せる形で立っている。見下しながら、にやにや笑っていた。  上りきれるものなら上ってみろよ、出来るもんならな。そう言っているかのようだ。  全く若造でしかないのに、憎たらしいことだ。嘆いていても仕方がないので、私はゼイゼイ言いながら坂に挑戦する。  数件の家の前を通る。まだ坂は半分以上あるのに、体は早速悲鳴を上げ始めた。ふくらはぎの筋肉がひきつったし、何より心臓がうるさすぎる。裂けるかもしれないと、真剣に心配になる。  さらに古びた、蔦が絡まった家の前を通る。膝に激痛が走った。もういい加減にしてくれ。関節が悲鳴を上げる。  お好み焼き屋さんの前を通る。疲れすぎて眩暈がしてきた。倒れるかもしれない。そう言えば、今日はしっかりとした食事をまだとっていなかった。この前低血圧で倒れた知人がいたが、自分もそうなるのだろうか。  坂を上りきった先を見てみる。まだあいつはいた。でももう笑顔じゃなくなっている。かと言って無表情というわけでもなく、顔にはありありと失望が表現されていた。今の私を見て、そんな感情を抱いているのだ。  仕方ないだろ、もう年寄りなのだ。私は思わず愚痴る。 「何で?」  疑問文がいきなり耳元でささやかれて、私は思わず飛び上がりそうになった。右後ろを見てみると、あいつが立っていた。だが瞬時に消える。もう、何でもありなのか。 「何で? どうしてそんなに、出来ないの?」  うるせぇ。そんな風に怒鳴りつけたかったが、流石にそれは憚られた。  私にしか見えていない、まるで幽霊のようにつきまとってきている過去の自分に怒鳴りつけたら、傍から見れば狂っているようにしか見られないだろう。  周囲の友人が結婚や出産をしたりして、相対的に自分の人生が上手くいっていないと思うようになったころから、こいつは私を苦しませてきた。  もっと頑張れ。  もっと先に行ける。  惨めな思いを避けられるようになるはずだ。  こんな人生や世間や社会、俺は認めない。  自分の人生にはもっと多くの栄光があっていいはずなんだ。  そう言い続けて、アクセルを緩めることを決して許してくれなかった奴だった。最初の職場で芽が出なかったために辞めた時には詰ってきて、彼女に振られた時は間髪入れずにもう一度頑張れ、と言ってきたのだ。  当然それらの態度によっていい方向に進んだことがないわけではないが、それでも目の上の瘤みたいなやつであることには変わりない。  だが、今みたいにあからさまな失望を向けてきたことは、なかった。  低血糖と激痛と破裂しそうな心臓に苦しみながら、それでもほぼ乾ききった布地から無理やり水を搾り取るかのように歩を進める。あと少しで坂を上りきれるところまできた、その時だった。 「もういいよ、お前」  また耳に声が届いた。 「所詮お前はこんなもんだったのか。でもまあ、いいんじゃねぇの。結果は出なくても、そこそこ自分なりに頑張ってはきたみたいだし。うん、まあ、よくやったよ。お前にしては」  私は自分の体の疲れのことを、ほんのわずかの間だが忘れる。それだけ、精神のショックが大きかった。高校生ぐらいの時の私は、今の私にすっかり失望しきったようで、軽い溜息までしていた。  ここまで過去の自分は残酷だったろうか、と疑問に思う。違う、と即座に心中で否定したが、その否定の勢いはすぐに萎んだ。  昔から、偉い人になりたかった。いや、そうでなくとも世間一般的な「普通」と言われる生活ぐらいは送りたかった。  自分ではその「普通」すら手に入れるのが難しいと分かってからは、その原因を外に求めた。政治家が怠慢。上流階級が富を手放そうとしない。  政治や経済の怪しげな本を買い漁っていたのも、外を憎むための理屈が欲しかったからだ。憎しみだけで世の中を変えることなんてできやしなくとも、憎しみを梃子にしてわずかでも言動や行動を変えていけば、いつか世の中がよくなっていく。  何て馬鹿馬鹿しいことを考えていたのだろう。そんなことをして、どこか先に進めたわけでもないのに。 「分かっているようだけど、お前はもう何にも手が届かねぇよ。大体のことを人のせいにしてきたお前ではな。年齢的にももう手に入れられなくなったものが多すぎる。今周りにあるわずかなものだけで、お前は満足するしかないよ」  次々と言いたい放題言ってくれる。だが年老いたことも、人のせいにしてきたことも、どう取り繕っても消えない事実でしかないので、今度は否定の感情すら湧いてこない。  何とか坂の頂上に私はたどり着く。だが、その時にはあいつの姿は消え去っていた。30年以上、私を苦しめてきたあいつはもう出てこない。そう直感する。  微かに肩の荷が下りたような気がして、同時に涙が出てきそうになる。何か大切なものが過ぎ去ってしまったかのような気がした。  坂の頂上からは僅かな下り坂と、そしてもう一度さらに高いところへと向かう上り坂が見えた。次の上り坂を越えた先に、仮にあいつがいたとしても、私にはもうそれを追いかける気力はない。脚も心臓もこれ以上は死ぬ、とアラートを鳴らし続けている。  だから私は今上ってきたばかりの坂を下って、帰るしかないのだ。そもそも体が辛い以前に、精神的にもこれ以上上る気になれない。  坂を下る前に周囲をぐるりと見まわす。一番高くない坂の上からでも夕方の町並みは濃い茜色に染め上げられて、胸が締め付けられるぐらい綺麗に見えた。雨はいつしか完全に止んでいて、私はこの時になってようやく傘を畳む。持ち手の部分に水が垂れてくる傘を一時的に考えなくて済むようになる。
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