1.たゆたうマリンスノー

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1.たゆたうマリンスノー

魔法都市ロマネストは惑星の九割以上が海で出来た水の星である。 陸の生き物が住まう都市自体も海中に没しており、周囲は魔法で海と区切られていて潮の満ち引きで多少の陸地の増減はある。 「──全ての生命は波から産まれてくると考えられている。呼吸から体温に至るまで魔法で管理する僕たち魔法使いにとって、この惑星全体が絶好の研究対象ってことさ」 ロマネスト唯一にして都市の中心を担うこの学校の男性教師は、コンコン、と軽くホワイトボードを叩き、続けて言った。 「次は君たちが授業を集中して聴く魔法でも使おうかな?」 冗談に教室内からくすくすと笑いが漏れる。 室内は椅子を引くわずかな音や生徒の雑談でさざめいていて、皆緊張を解いて教師の話に耳を傾けている。 「先生の授業が一番楽しいのに、聴かない生徒なんていないと思います」 机に軽く頬杖をついた女生徒は小首を傾げて言う。 教師は笑みを深める。 深緑色の髪に濃紺の瞳、常に笑みを絶やさない褐色の肌の教師は雑談を交えながら授業を進行する様も柔和な雰囲気も男女問わず厚く支持されている。 教師が無言の笑みのまま顎先で指し示す。 自然と生徒たちの目線は最後列の窓際に座った女生徒に集まった。 女生徒は教室の様相に目もくれず、窓の外を眺めて上の空だ。 はあ、とため息をついた隣の席の女生徒が小声でその生徒の名前を呼ぶ。 「リリーさん?」 リリーと呼ばれた少女は目もくれず、すっと右手をあげて発言した。 「先生」 「何かな、僕の話より面白い外を眺めているリリーさん?」 「あそこ、生徒が溺れてます」 ええっ、と生徒たちはどよめき窓際に押しかける。 「うわあ……一年生かな……」 「かわいそう」 窓の外、魔法で海と陸を切り分けた海側に一人の女生徒がもがいている。 流されそうになる紙類を拾おうとしたり、はためくスカートを抑えたりパニックを起こしているようにも見える。 「ふむ、入学当初に満潮時に海水が流入する場所は教えた筈だけど。何かに夢中になってて忘れちゃったかな」 さ、戻って戻って、と教師の声で生徒たちは席に戻っていく。 取り残されれば大変ではあるが、魔法が使えるのだ、何ら問題はないという判断である。 万が一海から出られなかったとしても、ニ時間もすれば潮が引き地面に戻れるだろう。 「先生、私、あの子が心配です」 女生徒──リリーは椅子から立ち上がり発言する。 「気持ちは分かるけどね。教室から抜け出たら反省文三十枚、ああ……」 リリーは言うや否やがらりと窓を開け、教師の発言途中に窓枠に足をかける。 「ごめんなさい、反省文ちゃんと書きます!」 リリーは魔法で背中に収納していた翼──鳥のような純白の翼を大きく広げる。 ほう、と教室から感嘆の溜息が漏れた。 魔法で海水を避け覗いている陽光が一層白の翼を輝かせる。 波打つ紫がかった白銀の長い髪も光を浴びて美しい。 生徒たちが思わず見惚れているうちにリリーは窓から飛び出し女生徒の元へ天翔けた。 「いいかい?あれは学年一秀才の成せる技だよ。君たちなら宿題をやりながら反省文三十枚も書いてたんじゃ、夜が明けても終わらないよ」 「先生はあの子みたいになって欲しいんですか?」 唇を尖らせた女生徒が複数人教壇に押し寄せる。 言外に学園内で圧倒的人気を誇る教師がいち女生徒に肩入れして欲しくない、と気持ちを滲ませている。 いいや、と教師、 「二時間もすれば無事戻ってくる子を助けに行って反省文、なんて割に合わないと思わないかい?君たちには……そうだな、もう少しだけ授業を続けようか」 にやり、と笑う教師はまるでいたずらを思いついた幼子のような顔だ。 「次のテストであの秀才を出し抜くポイントでも教えようかな?」 ひゅう、と口笛を吹いた男生徒の肯定の合図を機に教壇に押しかけた女生徒たちも席に戻っていく。 校庭の先、海の壁にたどり着いたリリーを一瞥して教師は目を糸のように細めて微笑んだ。 こぽり、と魔法で難なく海の壁を乗り越えるとリリーはもがいていた女生徒にたどり着く。 「大丈夫?」 「あ、あの、レポートが、」 リリーは今にも泣き出しそうな女生徒の肩を片手で支え、遥か遠くに流れていった紙も魔法で全てかき集める。 最後におそらく女生徒のものと思われる眼鏡も引き寄せ、女生徒を連れて海を越える。 「あ、あ、ありがとうございます……」 自身と涙目の女生徒から付着の水分を全て飛ばし、リリーは女生徒に眼鏡をかける。 かたかたと震える女生徒に、 「冷えちゃったかな?医務室まで付き合うね」 と、肩を抱いて支えた。 医務室にたどり着くとぺこぺこと頭を下げ、女生徒はお礼を言った。 本に夢中になって満潮を忘れていた事、誰も助けてくれなくて心細かった事をたどたどしく語った。 助けに行ったのは独善的で、実は嫌がられていたらどうしようかと思い始めていたリリーは内心胸を撫で下ろした。 校医に女生徒を任せると医務室を後にした。 「リリー」 駆けつけた男生徒を見てリリーはほっと息をつく。 男はリリーの両肩に手を置き、それから頬、前髪と確認するように指先で触れた。 「大丈夫、何ともないの」 リリーは男──自身の恋人の手を絡めとって頬に当てた。 伝わる体温に緊張が解れる。 思ったより緊張していたようだ。 「すぐに駆けつけられず、すまない」 「ううん、その……」 リリーは何かを確認するように前後の廊下を見て、頬から離した両手は繋いだまま落ち着かなさげに靴のつま先で床を弄り、目線を逸らした。 「うん?」 男はどうかしたのかと確認するように背の低いリリーに合わせ、屈んで顔を近づけた。 長めの濃紺の前髪を流し、後ろは少しだけ刈り上げている髪型、金の瞳の見慣れた顔立ちにきゅっと胸が詰まる。 「あの……」 ぱち、と目が合い、また逸らす。 男も気がついて廊下をさっと確認し、リリーに目線を戻す。 口付けたい、という恋人からの可愛い合図にふたりはもっと距離を詰め見つめ合い、 「見つけましたわリリーさん!」 「ふぎゃーっ!」 突然聞こえてきた叫び声にリリーはあんまり綺麗じゃない悲鳴を上げ、瞬時に手を離し飛び退いた。 「まぁヴィントさんいらしたのごきげんよう。隣のクラスのあなたはご存知ないでしょうけど、あなたの恋人ときたらまた反省文三十枚ですのよ。まったく、秀才のくせにこういうところ──………」 ぶっきらぼうに反省文の用紙を渡そうとした赤銅色の美しいストレートロングヘアの女生徒は、真っ赤な顔をしたリリーを見てん?と首を傾げる。 続いて男──リリーの恋人・ヴィントを見れば、こちらも心なしか少し顔が赤い気がする。 人気のない廊下。 はっとして女生徒、 「も、もしかしてわたくし……とんだ邪魔を……?」 ずしゃ、と廊下に両手と膝をついて倒れ込んだ。 「フィアナさん!邪魔なんて……大丈夫だから!」 女生徒──フィアナにリリーは慌てて縋りついて説明する。 フィアナは悪態は多いものの、リリーにとっては良き友だ。 「まぁ事後でしたの。良かった」 「じ、事後!?な、何でもないの!」 「何でもないのにそんなに赤面しないで下さります?わたくしてっきり」 「てっきりって何!?」 フィアナはひとしきりリリーをからかうとお邪魔してごめんなさいね、とヴィントに告げ去っていった。 「うぅ……あと二十枚もある」 海に沈む尖塔の灯室で、リリーは反省文を抱えて浮力に任せて寝転んだ。 潮の満ち引きに伴い学校と寮を繋ぐ渡り廊下を残し、辺りは海に沈む。 廊下の途中に設置された尖塔に居座るには呼吸や水圧調整、体温を維持する魔法を使わねばならず魔法を使いながら宿題、ましてや反省文をしたためようとするのはリリーくらいしかいない。 「もう十枚も終わったじゃないか」 「褒め上手。もっと持ち上げて」 横で読書をしながら、リリーの恋人──ヴィントも付き合っている。 放課後授業が終わってから寮に帰るまでの、ふたりきりの貴重な時間でもある。 こうか?とヴィントは魔法で背中に収納していた自身の翼を大きく伸ばしてリリーの背中を包み込む。 漆黒の竜を思わせる翼は鈍く艶のある骨子に皮膜を纏ったリリーとは違うもの。 上質な織物を思わせる滑らかな皮膜に包まれて、リリーは甘えるように擦り寄った。 これは反省文どころではない。 「ちょっと休憩!」 ペンも用紙もぽいぽい投げ捨ててヴィントの胸元に思いっきり抱きつき、自身も白い翼をぎゅーっと伸ばした。 海流に持っていかれないように投げ捨てたものを回収していたヴィントが、 「見てごらん」 リリーの頭を撫でて顔を上げるよう声をかける。 ふわり、と白い粒。 波にたゆたいながら雪のように舞い散るものがある。 「マリンスノー……綺麗」 海中の浮遊物はどこからともなく降り注ぎ、深い青を白に染め上げていく。 すっとヴィントの影が降りてきて、リリーは目を瞑る。 「終わるまでだからな」 重ねた唇を離すと、ヴィントは背中を見せているリリーの羽づくろいを始めた。 ……羽づくろいが終わるまでだろうか、マリンスノーが終わるまでだろうか。 どっちでもいいか、とリリーはずるずるとヴィントの胸から頭を下ろして膝に顔を埋めた。 「寝ます」 こら、と優しく甘い声を聞き流しながら翼に響く心地よい感覚を楽しんだ。
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