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僕が人間ではなく人魚だと言ったら、妻はどんな顔をするだろう。
悲しんだりするのか、呆気に取られたりするのだろうか。
けれど想像の中の妻は、僕がどんな秘密を明かしたとしても面白そうに笑ってくれる。
妻は憶えていないはずだけど、僕らの出逢いは海の中だった。
何の事情か海に落ちてきたのを助けたのがきっかけだ。沈んできた彼女は悲しみを纏っているように見えた。
――何か喜ぶものを見せたい。
僕は彼女が水中でも苦しくないようにしてから、この海で一番美しい場所に連れて行くことにした。
話しかけてみると、彼女は気さくで話しやすく、どうして海などに落ちてきたのか不思議なほどだった。
辿り着いたのは陽光の差す海に咲く桜の樹のもと。
彼女は瞳を輝かせて桜に見入った。花のピンクと海の碧を纏って、樹のてっぺんまで泳ぎ舞ってはしゃぐ。
――春には海にも桜が咲くのね。
――地上にも桜が?
――ええ。ここのも素敵だけど、地上のだってとても綺麗よ。
水の流れに揺れる花びらとふわふわ海中を漂う彼女。たぶん僕はその時、恋に落ちていた。
けれど海の長に見つかり、彼女は忘却の真珠を飲まされ陸に戻されてしまった。
――僕は彼女と一緒になるつもりです。
昔むかしからずっと、人魚は人に知られてはいけないものだった。けれど海の世界だって進歩する。声を失ったりしなくても足を得ることはできるのだ。
――長が地上に遊びに行っているのも知ってますよ。
そして何をしているのかも。
脅せば長はいともたやすく僕を陸に上げ、戸籍まで与えてくれた。
そうして僕は地上で彼女と夫婦になった。
今日は毎年恒例にしている妻との花見の日。目的地の公園は桜が満開。妻が言っていた通り、地上の桜も美しい。
妻は時折僕を試すような発言をする。「海で桜を見たことがある」なんて話。そして僕の顔色を窺って楽しんでいる節さえある。
実は憶えているのでは、と思うけど、海の赦しが出るまでは言えない。適当に長を脅せばいけそうではあるけど。
だけどもう少しだけ、楽しい秘密を抱えていたい。
隣で桜を見上げる妻は何より尊く美しい。海を流れていた花びらの幻影が横顔に重なった。
あの日海に沈んで来た悲しみを妻が僕に明かすことは今も無いけれど、それで良い。心をすべて明かすのが正しいとは限らない。人に見せるのと見せない部分は、分けておいたほうがきっと良い。
二人寄り添うことで妻が笑ってくれるなら、僕にとってはそれで充分なのだから。
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