天使の私が歌うことをやめたなら

　
　天使のカノンは日々、寿命を迎えた人の魂を天界へと案内している。
　いつ頃から始めたのか、何がきっかけだったのかは覚えていない。気づけば、この役目に就いていた。
　ずいぶんと長く地上の歴史を見てきたが、見た目は十代後半の少女のまま、まったく変わらない。

　そして、彼女の姿は人間には見えないため、死亡予定日の約一週間前から、担当する人を近くで見守ることにしている。

　同僚や先輩からは、「ひとりひとりの人間にそこまで親身にならなくても良い」と言われているが、担当者になったからには、最期まで見守るというスタイルをカノンは貫いていた。

　人が命を落とす理由は様々だ。長い闘病生活の末に亡くなる人、突然の事故死など――。

　天使であるカノンが死ぬことはない。

　しかし、死とは辛く悲しいものだということは知っている。愛する人や趣味など、すべてを奪われるのだ。
　それならば、せめて最期は安らげるようにと、彼女は死期が迫った人々に向けて、天上の歌を歌うようになった。

　しかし、それがまずかったらしい……。

　“幻聴のように不思議な歌が聞こえると、一週間後には死んでしまう”という都市伝説が流れ始めた。
　そして、人々はカノンの歌を恐れるようになってしまった。
　特に、さし当たって死ぬような理由がない健康な人には、ずいぶんと怯えられた。“死神の歌”だと。

　たしか、“もうひとりの自分に会うと死ぬ”と噂されるドッペルゲンガーは、脳の病による突然死が原因だという説がある。

(そっか、私が歌うと逆効果なのね。……もう、歌うのはやめようかな)

　歌うことをやめ、そばでそっと見守るスタイルに変えてすぐに、高校三年生の男の子の担当になった。

　幼少期からの難治性の病で、あまり学校にも通えていないらしい。
　入退院を繰り返しているため、同年代の友人よりも大人と接する機会のほうが多いようだ。
　そのせいか、実年齢よりも大人びて見える。

　長く患ってはいるが背丈があり、骨格もしっかりして、顔も整っている。
　健康であれば、さぞかしモテるだろう。恋人がいても、おかしくはない。

　しかし、カノンが持っている情報には、お見舞いに来る友人や恋人はおらず、家族との縁も薄い、と記載されている。

　今まで色々な境遇の人を天界に送ってきた。
　時には、戦場や自然災害の被害に遭った土地から案内することもある。
　雨風がしのげて、毎日食事が出てくる場所で亡くなる彼は、恵まれているほうなのかもしれない。
　しかし、なぜか彼のそばにいると、ひどく胸が苦しくなる。

　陽が落ちた病棟の個室で、寂しげに目を伏せた彼の姿を見たカノンは、思わず歌いだしてしまった。

(しまった！　癖で……)

　一小節ほど口ずさみ、慌てて口を手で覆った。
　そして、この後どうすれば良いのかと、あたふたしていると、穏やかな優しい声で話しかけられた。

「どうしてやめちゃうの？　もっと聞かせて？」

　彼は声に反応しただけではなく、しっかりとカノンの目を見つめていた。

「……え？　え！？　まさか、私が見えるの？」
「見えてるよ。可愛い……、天使の女の子が」

(本当に私が見えるの？　しかも、会話してる？)

「君の歌、以前にも聞いたことがあるんだ。……あの時も、すごく素敵で可愛い声だった」
「以前にも？　まさか。そんなこと、ありえないわ」

　カノンが歌うのは、死亡日の約一週間前からだ。歌を聞いた人が生きているはずがない。
それに――、彼とは初対面のはずだ。

「半年くらい前だったかな」
「半年前……？　あっ！」

　半年くらい前に、九十八歳の男性を天界に導いたことがある。家族に見守られながらの大往生だった。

(そういえば、この病室の隣だった気がする。でも、亡くなる本人にしか歌は聞こえないはず……)

　そして、もっと聞かせてほしいという少年の言葉を思い出し、カノンは眉根を寄せた。

「私の歌の噂、知らないの？」

　長く入院していれば、都市伝説などの話を耳にすることはないのかもしれない。

「知ってるよ。でも、本当は違うでしょ？　歌を聞くと死ぬんじゃなくて、死期が近いから聞こえるんじゃないかな。間違ってる？」
「……合ってる」
「君みたいにキレイな女の子に案内されるなら幸せだな。悔いは残らない」

(そんなの嘘よ)

　まだ二十歳にも満たない少年の達観した様子に、涙が出そうになった。

　彼の穏やかな表情や、物わかりの良い口調が本物ではないことをカノンは知っている。
　苦しみや強い痛みが伴う治療を、生きるために必死で受けてきた過去を覗いたから。
　大学受験のための勉強をこっそりしていることも知っている。

「歌、聞かせてくれないの？」
「嫌よ。　歌いたくない……っ！」

　とうとう、カノンの目から涙がこぼれた。
　今まで多くの人の死を見守ってきたが、泣くことはなかった。

「イジワルな天使さんだなぁ」

　カノンの様子を見た彼は、苦笑しながら眉尻を下げた。

「だって、私が歌ったら……」
「うーん。さっきも言った通り、君が歌わなくても僕の死期は変わらないでしょ？　それなら、気持ち良く死にたいな」

　なんて悲しく、胆のすわった言葉だろうか。
　それでも、すぐに首を縦に振ることはできなかった。

　逡巡していると、急に彼の言葉が途切れ途切れになり始めた。

「ね、お願い……。はは……、こ、れが、本当の、一生……のお願い、ってやつ……なの、かな」

(まさか急変！？)

　先ほどまで、不自然なほどに大人びていた彼が、呼吸を乱しながら幼い笑顔を見せた。
　こんな時なのに、やっと本来の彼を見ることができた気がした。

　心電図の波形が変わり、けたたましい音が病室に鳴り響く。
　すぐさま、複数の人間が廊下を走る音が聞こえてきた。看護師や医師がこちらに向かってきているのだろう。

「嘘！　嘘よ……っ！　早すぎる！」

　まだ彼の死亡予定日ではない。
　カノンが困惑していると、彼がまた穏やかな笑みを見せて、カノンの手を弱々しく握った。

(私に触れるの……？)

　天使に触れられるのは、本当に最期の瞬間だけだ。彼は微笑みながら、ゆっくりと瞳を閉じていく。

「駄目よ！　待って！　今死んでも、私は連れて行かないからねっ！　起きなさい！」

　力が抜けていく彼の手を両手で強く握り、泣きじゃくりながら、カノンは無意識に歌った。

　こんな歌い方をするのは初めてだ。メロディーもいつもと違う。
　こんな歌は知らないのに、勝手に口から溢れ続ける。

　どれくらいの時間が経っただろうか。
　自分の声がかすれていることに気づいた時、彼の指がピクリと動いた。
　そして、心電図の波形や血圧が安定し、医師たちが安堵する声が聞こえた。