シンドラーのリスト

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シンドラーのリスト

 ディヴィド・ギャレットのCDに『シンドラーのリスト』が入っていた。  映画では、ギャレットが師事していたイツァーク・パーマンが演奏している。  パールマンは映画『ミュージック・オブ・ハート』に出演している。  ︎  子供の中には足の悪い女の子がいて、姿勢を保てないため弓に力が入らない。義足を見たロベルタは 「松葉杖のイツアーク ・パールマンは椅子に座って素晴らしい演奏をしたのよ。人は足だけで立つのじゃない、気持ちでしっかり立つことが大事なのよ」 と励ます。  ラストはアイザック・スターン、アーノルド・スタインハート、イツァーク・パールマン、マーク・オコーナー、ジョシュア・ベルなどの著名な演奏家が本人として登場している。  ︎  イツァーク・パールマン(1945年8月31日 - )は、イスラエルのテルアビブ生まれのヴァイオリニスト、指揮者、音楽指導者。  20世紀後半における最も偉大なヴァイオリニストの一人と評価されており、また知名度においても最も秀でたヴァイオリニストの一人である。演奏においてのみならず、教育者としても高く評価されている。  3歳の時、ラジオでヴァイオリンの演奏を聴いて感動し、ヴァイオリンに強い憧れを抱く。最初はおもちゃのヴァイオリンを遊び半分で弾いていたが、間もなく正式なレッスンを受けるようになる。  しかし、4歳3ヶ月のとき、ポリオ(小児麻痺)にかかり、下半身が不自由になってしまう。それでもヴァイオリニストになる夢をあきらめず、幼少ながらシュミット高等学校でヴァイオリンのレッスンを続ける。  その後、アメリカ=イスラエル文化財団の奨学金を受けて、テル・アヴィヴ音楽院でリヴカ・ゴルトガルトに師事し、10歳で最初のリサイタルを開いた。これを機にイェルサレム放送管弦楽団の演奏会に招かれ、ラジオにも出演する。  テル・アヴィヴ音楽院卒業後の1958年、13歳の時、アメリカの人気番組「エド・サリヴァン・ショー」のタレント・コンクールに応募して栄冠を勝ち取り、翌1959年2月に出演、リムスキー=コルサコフの「熊蜂の飛行」やヴィエニャフスキの「華麗なるポロネーズ」を弾いて大絶賛を浴びる。  このテレビ出演をきっかけに、アメリカに留まることを決意、アイザック・スターンの強い推薦を得てジュリアード音楽院に入学、名教師イヴァン・ガラミアンとそのアシスタントのドロシー・ディレイのもとで学ぶ。  1964年8月にはレーヴェントリット国際コンクールで優勝する。18歳での優勝は史上最年少であった。  その後はアメリカのメジャー・オーケストラから共演依頼が殺到し、アメリカ全土の主要都市でリサイタルを開いて絶賛を浴びる。  1965年には7年ぶりに故国イスラエルに帰り歓迎を受ける。  1967年から1968年にはヨーロッパの主要都市でデビューを果たし、その評価は国際的なものとなる。  初来日は1974年で、その後、度々来日している。  1966年から始めたレコーディングではグラミー賞15回をはじめとしてエミー賞を4回受賞するなど、ほとんどのレコード賞を獲得している。 『シンドラーのリスト』は、スティーヴン・スピルバーグ監督による1993年のアメリカ映画。  第二次世界大戦時にドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描く。ホロコーストに関する映画の代表的作品として知られる。  監督候補にはビリー・ワイルダー、マーティン・スコセッシ、ロマン・ポランスキーなどが挙がっていた。結局ユニバーサル側が提示した「『ジュラシック・パーク』の監督もやる」条件を受け入れスピルバーグが監督となった。1982年に原作の映画化権を手に入れたスピルバーグは、その後10年近く構想を練り企画を温めた後、この映画の制作に着手したという(スピルバーグ自身もユダヤ系アメリカ人である)。なお、スピルバーグは「血に染まった金は貰えない」として、監督料の受け取りを拒否している。  ラストシーンを除けば、ほぼ全編に渡りモノクロ作品である。これはスティーヴン・スピルバーグ監督の「戦争を記録したフィルムはモノクロだからその方が説得力があるだろう」という考えによるものである。ただし、パートカラーが採用され、赤い服の女の子、蝋燭の赤い炎などが登場する。 『ジュラシック・パーク』の制作費6300万ドルに対し、本作は2500万ドルと潤沢とは言い難い額であった。小道具や古着が現地調達され出演料の高いスターは起用されず、出演者の多くも現地でキャスティングされた。撮影カメラもパナビジョンに比べレンタル料の安いアリフレックスが使われ、基本的に撮り直しをしない方針で進められたが、完成版は3時間15分とスピルバーグ監督作品では最長の尺となった。  音楽担当のジョン・ウィリアムズは、フィルムを観て自分には荷が重すぎると感じ、スピルバーグに、 「この作品には自分よりもっと適任の作曲者がいると思う」 と進言したが 「知ってますよ、でもその人たちはみんなすでに故人なんです」 と返された。彼はこの作品でアカデミー作曲賞、英国アカデミー賞 作曲賞を受賞した。  第66回アカデミー賞では12部門にノミネート、そのうち作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、美術賞、作曲賞の7部門で受賞した。  2022年、雑誌誌面にて、最近のポリオの感染流行の復活には強い憤りを感じており、自分がポリオにかかった時代にワクチンがあったら(ポリオワクチンが発表されたのは1955年)接種していただろう、ポリオは苦しい、ポリオワクチンに疑念を抱く人々の話を聞くと腹が立つ、と記している。 (Wikipediaを参照しました) メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲第三楽章 エド・サリヴァンショー https://youtu.be/9HYzHGzpamw シンドラーのリスト https://youtu.be/1uothczT8G4
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