娘は天才なのよ

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娘は天才なのよ

 かつて作家・五木寛之氏に「“演歌”でも“援歌”でもない。“怨歌”である」といわしめた歌手・藤圭子。  当時毎日のように歌番組に出ていた。私が若い頃は演歌に興味はなかったが、今YouTubeでカバー曲を聴いてみると、うまいなあと思う。  藤圭子は幼い頃から浪曲師の父母のドサ回りに同行。旅の生活を送り、自らも歌った。勉強好きで成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために、高校進学を断念。  15歳の時に雪祭り歌謡大会のステージで歌う姿が作曲家・八洲秀章の目に留まり、上京。八洲秀章のレッスンを受けながらいくつかのレコード会社のオーディションを受けるが全て落選。生活のために錦糸町や浅草などで母と流しをする。  その後、作詞家の石坂まさをと知り合い、石坂まさをの自宅に住み込みでレッスンを受ける。1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。石坂まさをからRCAレコードの当時のディレクター榎本襄(現・音楽プロデューサー)を紹介されこの三人でデビュー曲を練り「藤プロ」という個人事務所でスタートした。  以後、石坂まさをと組んでヒット曲を連発。オリコンチャートで、ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。なお、内山田洋とクール・ファイブとの共作「演歌の競演 清と圭子」も含めると計42週連続1位となる。シングルにおいても「女のブルース」は8週連続1位、続く「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録し、18週連続1位という同一歌手での連続記録を残す。  演歌を歌いながらもアイドル歌手としての人気も集め、青少年に大きな影響力を持っていた少年マガジンなど多数の雑誌の表紙を飾った。またその人気からテレビアニメ『さすらいの太陽』のヒロインのモデルにもなった。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/藤圭子  48年前の6月、前川と藤の婚約発表に世間は沸いた。 「ボクが22才で彼女は19才。お互い、好きだという気持ちは当然あるけれど、実はどうしても夫婦になりたいというわけではなかったんです。ただ彼女は、当時、恩師で事務所の社長でもある作詞家の石坂まさをさん(享年71)の自宅に住み込みをしていたので、隠れて会ったりするのはなんだか嫌だね、と。だったら、一緒になった方がいいかもねっていうのが結婚に至った理由でした」  当時は歌謡曲全盛期。藤も、前川がボーカルを務める内山田洋とクール・ファイブもオリコンヒットチャートの上位ランキングの常連だった。 「芸能界でも彼女のファンは多くて、婚約発表後に野口五郎くんから“なんで前川さんなんかと~!? ボク、好きだったのに~”って言われて、“いや、ごめん、ごめん”って謝ったこともありました(笑い)」 https://www.news-postseven.com/archives/20190822_1435839.html?DETAIL  46年のNHK紅白歌合戦には、これまでに例がないだろうと言われた夫婦そろっての出場が決定。本番を前に自然気胸のため緊急入院した前川に代わって、前川が歌う予定だった「港の別れ唄」を藤が歌い、会場とお茶の間を沸かせた。 https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/08/22/2p_0006273106.shtml  1972年8月12日、おしどり夫婦と呼ばれたふたりの電撃離婚会見。これもまた、「(離婚の理由は)ありません」と、掴みどころのないものだった。 「ボク自身も結婚生活を振り返ってみても“なんだったんだあれは?”って思いますもん。ただね、1年間の結婚生活のなかで、彼女には1円もお金を出させることはなかったですよ」  それは、九州男児の意地のようなものだろうか? 「いやいや、そうじゃない」と、前川が大きく首を横に振る。 「それぐらいしかボクが彼女にしてあげられることがなかったんです。だから、ずっと後になってのことですが、彼女が“清ちゃんがいちばん優しかった”と言ってくれていると人づてに聞いた時はうれしかった。素直にね。 https://www.news-postseven.com/archives/20190822_1435839.html/4  1974年、喉のポリープの手術を受けたことで、自身が強みと考えていた声の特徴が失われたと悩むようになり、引退を考え始める。  1979年10月17日、RCAレコード本社に於いて引退の記者会見を開き、1979年12月26日新宿コマ劇場で引退公演を行った、その後渡米する。  1981年7月29日に帰国。同年8月1日より「藤 圭似子」の芸名でニュージャパンプロダクションに所属し、RCAレコードからCBSソニーに移籍し、第一弾となるシングル「螢火」を発表した。  1982年に、宇多田照實と再婚。以降、照實との間で7回の離婚・再婚を繰り返す。 1983年1月19日、ニューヨークにて娘(宇多田ヒカル)を出産。網膜色素変性症を発症し視力が徐々に低下していた頃の出来事だったことから、「我が子から光が失われないように」という願いを込め「光」(ひかる)と命名した。  その後、光を世界で通用する歌手に育てるため、1990年から照實とともに光を連れて初めて渡米、お金が足りなくなると日本に戻って歌い、お金が貯まるとまた渡米することを繰り返した。その際にはいくつかのテレビ番組にも顔を出しており、複数回出演した『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ)では光とのエピソードを交えつつ、当時のヒット曲を歌唱している。更に1996年11月26日に出演した『徹子の部屋』では当時13歳だったデビュー前の光の歌声を紹介した。光デビュー直前の1997年まではテレビ番組出演を続けており、1月27日放送の『ふたりのビッグショー』では八代亜紀と共演、往年のヒット曲「女のブルース」など多数の曲を歌唱、八代と昔の思い出を語りあうなど健在ぶりを見せていた。  光が15歳となった1998年に宇多田ヒカルの名で歌手デビューし、これを機に藤も再び注目を浴びた。しかし、光のデビューと入れ替わるように自身は歌手活動を封印、以降ほとんどステージで歌うことはなくなった。  圧倒的な歌唱力と存在感、儚さと数奇な人生。それらをすべて背負っていたのが、歌手・藤圭子だった。  別々の道を選択したから、歌姫が誕生した。 「もしも、今の年でお互いに独り身であったなら、もっとわかり合えたかもしれませんね。でも、そういう運命の流れがあったからこそ、宇多田ヒカルさんという歌手がこの世に誕生したわけですよ」  1998年、宇多田ヒカルのファーストアルバム『First Love』は900万枚突破という日本新記録を打ち立てた。そんなわが娘の類まれな才能を全力で後押ししてきたのが母である藤だった。 「宇多田さんがデビューする前、1度だけ藤さんから電話がかかってきたことがあるんです。“娘は天才なのよ”って。それから間もなくして凄い歌声の若い娘がいるなと思っていたら、それが藤さんのお嬢さんだった。独特な声質がソックリで驚きました。歌っている時というよりも、しゃべっている声が。CMで宇多田さんの声が流れた時、思わず振り返ってしまいますもんね」  芸能生活50周年を記念したシングル『初恋 Love in fall』を発表した前川。偶然にも宇多田が同月にリリースした新曲のタイトルも『初恋』だったことには心底驚いたらしい。 「こっちは“得した! 誰か間違えて買ってくれないかな?”(笑い)なんて冗談を言ってましたけど、向こうは迷惑しているかも…。でも、これも何かの縁かもしれませんね。  前川清さんは「クール・ファイブ」時代から多くのファンを持っており、同業者でも「サザンオールスターズ」の桑田佳祐さんや、「ミスターチルドレン」の桜井和寿さんなどを始め、多くのアーティストから尊敬を集めている歌手です。  クール・ファイブの一員だった時代の初期は、常に澄まし顔で斜に構え、ほとんど喋らないと言う冷たい二枚目キャラクターだった。だが1970年代半ばに萩本欽一がフジテレビ「欽ちゃんのドンとやってみよう!」のレギュラーに起用。二枚目キャラの裏側に隠れていた大ボケな個性を引き出し、お笑いの才能も広く認められるようになった。  2013年8月22日午前7時頃、東京都新宿区のマンションの前で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。遺書などは見つかっていないが、衣服の乱れや争ったような跡がないことなどから、新宿警察署は飛び降り自殺を図ったと断定した。照實と光はそれぞれコメントを発表し、藤が1988年頃から精神疾患を患っていたことを公表した。  喪主を務めた光は「遺言書がある」と表明、葬儀は行わず本人の遺志に沿う形で宇多田父子ら親族関係者の数名が火葬に立ち会う直葬となり、のちに遺灰も海に散骨された。その後、藤の実家の阿部家側によって、ファン有志とともに「しのぶ会」が行われた。 藤圭子と八代亜紀の共演で。 https://youtu.be/_piIxSY6h7A 前川清の『初恋』 https://youtu.be/RqcjEE-7olU
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