垓下(がいか)の歌  四面楚歌

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垓下(がいか)の歌  四面楚歌

 中国の歴史など詳しくないのに、ドラマを観ていろいろ調べた。  項羽(こうう)劉邦(りゅうほう) 呂后(りょこう)(せき)夫人 虞美人(ぐびじん)……  実はドラマを最後まで観ていないのだ。観始めたのは劉邦の奥さんの方に興味があったから。恐ろしい中国三大悪女のひとり、呂雉(りょち)呂后(りょこう)。  日本語吹き替えしかなくて、途中でやめてしまったが、調べると面白い。  まず『四面楚歌』の歌に魅せられてしまった。漢詩など興味はなかったのだが、漢文も苦手だったが、繰り返し聴いている。合わせて歌っている。『垓下(がいか)の歌』  ()や虞や、(なんじ)をいかんせん…… 「項羽の陣営を幾重にも囲んだ劉邦の軍から夜、()の歌が聞こえてきます。項羽は敵に投降した楚の兵が多いことを知って驚きました。  項羽のそばには常に最愛の女性、 虞姫(ぐき)と、愛馬の(すい)がおりました。項羽は詩を詠じます。  力は山を抜き気は世を(おお)ふ。  時利あらず(すい)逝かず。  騅逝かず奈何(いか)にすべき   虞や虞や(なんじ)を奈何せん。  自分には山を動かすような力、世界を覆うような気魄(きはく)があるが、時運なく、(すい)も立ちすくんでしまった。騅が走らなければ、どうしたらいいのか。虞や虞や、おまえをどうしたらいいのだろう――。 「美人 (これ)に和す」 「項王、(なみだ)数行下る。左右皆泣き、()く仰ぎ視るもの()し」  項羽は覚悟していました。敗れた自分は散ればいい。だが虞姫はどうなる? 項羽は虞姫ひとりを心から愛していたのだと思います。 (NIKKEI STYLE キャリアより)  個々の戦の能力という意味で、項羽は飛び抜けた存在だった。劉邦は項羽を倒した勝因について、次のように述べた。 「帷幄(ちょうあく)のなかに(はかりごと)をめぐらし、千里の外に勝利を決するという点では、わしは張良(ちょうりょう)にかなわない。内政の充実、民生の安定、軍糧の調達、補給路の確保ということでは、わしは蕭何(しょうか)にはかなわない。100万もの大軍を自在に指揮して、勝利をおさめるという点では、わしは韓信(かんしん)にはかなわない。  この3人はいずれも傑物といっていい。わしは、その傑物を使こなすことができた。これこそわしが天下を取った理由だ。項羽には、范増(はんぞう)という傑物がいたが、かれはこの一人すら使いこなせなかった。これが、わしの餌食になった理由だ」(PRESIDENT Onlineより)  鴻門之会(こうもんのかい)で、項羽側が宴に招いた劉邦を討ち取る絶好のチャンスがあったが、項羽は敢えてそうしなかった。  宴の席で討ち取る等、卑怯者の所業であるという項羽の考えは、常に正々堂々と相手にも自分と同じ条件を用意してやった上で倒すという彼独自の美学に基づくものであったが、劉邦を生き長らえさせたことは、後の項羽にとって命取りとなった。  しかし、こうした項羽の生き方は、カッコいい男の生き様として中国民衆の心をとらえて離さず、今日でも項羽のファンは非常に多い。  紀元前202年、項羽を制し天下統一を成し遂げた劉邦は、漢王朝を建国し初代皇帝 (高祖)に即位した。  しかし世は真の平和を得たわけではなく、漢の周辺では相変わらず戦が続いていた。  高祖は自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。2代目恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の妻呂皇后であった。  呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意 戚夫人の子供を毒殺、更にその母の戚夫人を人間豚と呼ばれるほどの残虐な刑で殺害、恵帝は母の残忍さにショックを受け酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。  映画『鴻門の会』のラスト。 「だが知る由もない。我が妻が息子たちを殺したことを。  さらに知る由もない。400年後、我が帝国が地上から消え失せることを。 四面楚歌 https://youtu.be/lF37YlQfgMo
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