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「冬吾さん?」
壁にもたれて昔のことを思い出していたら、急に花名が顔を上げてヘッドホンを外した。スマートフォンを背中の後ろに隠した素振りから、若干の後ろめたさが窺える。
「いつからいたんですか」
「五分くらい前に一度は声を掛けたんだけど、集中しているみたいだったから、邪魔しない方がいいかなと思っていたんだ。何を聴いていたの?」
数歩近づき、背中を覗きこむように上半身を傾けると、花名の目が泳いだ。
「……ただの音楽です」
不思議な言い回しだ。花名は嘘が下手だから、隠し事は難しいんだろう。
「当ててもいい? ジャズ?」
「違います」
「違うんだ。洋楽?」
「いえ」
大概花名が聴いているのはこの二つなのに、どちらも違うのか。
「じゃあクラシックとか」
違うと頭を左右に揺らす表情から、嘘は見受けられない。
「お手上げだな。見当もつかない。教えてくれないの? 隠しごとをされると少し寂しいよ」
ソファのアームレストに腰掛けながら言うと、花名は困った顔をした。
「絵莉さんが、パリに住んでいた頃のものを整理していたら、面白いものが出てきたからって」
「面白いね……。僕に関するものということだよね」
絵莉さんが絡んで、僕に分があることなんてほぼない。あの人は僕の弱みを握りまくっているからな。
「あのでも、絵莉さんは冬吾さんをからかおうとしているんじゃなくて、ただ私に聴いて欲しかっただけなんです」
たまに自分でライブの録音をしていたから、アパルトマンに残っていたのを絵莉さんが持ち帰っていたのかもしれない。
「心配しなくても、絵莉さんを怒ったりしないよ。なんとなくどんなものかは想像がつくし」
安心したのか、花名は笑顔になって僕にヘッドホンを差し出した。受け取って耳に当てると、スマートフォンの画面に表示されていた無題の音声ファイルを再生される。
思っていたような、ライブハウスでの録音ではないことがすぐにわかった。客の声やカトラリーの音が全くしないからだ。ノイズの入る静かな空間から、音割れしたあまり録音状態がいいとは思えないピアノの音が聴こえてきた。
考えながら弾いているのか、少し弾いては止まってを繰り返している。
たしかにピアノは僕の音に聴こえるが、何の曲かも、いつ弾いたものかもわからない。
花名の言うとおり、ジャズのスタンダード曲でもなければ、洋楽でもクラシックでもない。というか知らない曲に聴こえる。
花名が、眉をひそめてしまっていた僕を心配そうに見ている。
「何の曲か考えているだけだよ」
はっきりと前奏を弾き始めたとき急激に記憶がよみがえった。これってと変な汗がでてきたときには、すでにスマートフォンの中の僕が歌いだしていた。絵莉さんたちと住んでいた頃に作った、僕の歌に間違いなかった。
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